残雪

備前の近くで生まれ、備前焼に囲まれて育った。上京してから陶器市でやきものの楽しさに気づき、『ぐい呑大鑑』というただひたすら日本全国のやきものの写真が載っているとてもストイックな本を見つけて、やきものを見てまわる旅に出たくなった。

初めての旅では福島の相馬焼を見にいった。旅慣れしていない人間にとっていわきから先の常磐線は、中山忍の語りの曲を聴き通すのとおなじくらい辛くて、その後に東北を頻繁に旅行するようになっても最初の時の印象が強く、常磐線を使おうという気にはならなかった。

相馬焼センターの最寄は浪江駅で、バスぐらいはあるだろうとたいして調べもせず甘い気持ちでいたら、バスが廃止になっていて大変な目にあったりした。

相馬焼には「馬の絵が描かれている」「貫入(ひびわれ)がある」「二重構造になっている」といった、いくつかの特徴がある。要は相馬焼としての決まり事が多く、どこの窯元も遊びようがないのか、やきものセンターでまとまった量を見ると、わりと似たようなものが多いことに気がついた。使わないもの、飾るためだけのものを買うというのはあまり性に合わなくて、このとき買ったのは湯呑だけだったけれど、その後も湯呑を買うのが習慣になって、全国の窯元をまわると家は湯呑だらけになった。

全国各地の有名どころはだいたいまわって、場所によっては二周目に差し掛かった二〇〇七年、東北を旅行中に訪れたのが山形市内にある平清水焼だった。山形駅から南東方向に歩いて一時間ほどの山裾に窯元が集まっていて、どの窯も様々なバリエーションのものを作っている。雰囲気としては笠間や益子に近いけれど、梨青瓷なしせいじと呼ばれる青緑がかったものはどこの窯も決まって作っていて、この梨青瓷を生み出したのが青龍窯というところだった。

青龍窯は母屋や作業場とは別に離れがあり、そこが販売所になっていた。中では老婦人がレジをしていて、あとで話をしてわかったのだけれど、老婦人は四代目、丹羽良知さんの奥さんだった。

先代が生み出したという梨青瓷を見ていると、棚に白磁はくじのやきものがあることに気がついた。手にとってみると、するすると手ざわりが良く透きとおるように白い。形もてらうところがなく真っすぐで白い胴にはうっすらと黒っぽい筋が、口の辺りにほんのりと黄色が混じり、高台こうだいには釉薬うわぐすりがかかっておらず淡い茶色になっている。名前は「残雪」といい、四代目の良知さんが新しく生み出したものだと奥さんに聞いた。

残雪の湯呑と小皿を二枚買って、お茶を飲みながら二、三時間ほど、座って奥さんとしばらく話をした。昨夜は仙台に泊まって山形には今朝ようやく着いたばかりだと伝えると、奥さんは仙山線の鉄橋が今にも落ちそうで怖いと言い、ころころと笑った。途中から良知さんも加わり、浪江からは少し離れた場所で相馬焼を作っている友人がいること、先週、弟子にしてほしいと東京から思いつめた様子で歩いてきた青年がいたこと、そして、白磁のやきものが残雪という名前になった由来などを聞いた。

残雪はようやく見つかった本当に自分好みのやきもので、この湯呑を手に入れてから陶器熱は少し落ちついた。窯元を巡る旅の頻度は減り、かわりに住宅街の写真を撮って歩くようになったから、次に青龍窯を訪れたのは五年後の二〇一二年のこととなった。この時は地震でお気に入りの残雪が割れてもいいようにバックアップ用として、口があまり広がっていない、前回買ったものとおなじような湯呑と大皿を買った。

もともと目を悪くしていた奥さんは母屋で転んで怪我をしたらしく、危ないからと最近はもう販売所の方には立たなくなったということと、この前の地震ではやきものが落下して割れたりというのはそれほどでもなかったけれど、その後の停電で暖房が使えず、乾燥中のものが寒暖差で割れて大変だったということを、良知さんからうかがった。

それからはもう青龍窯へは行っていない。息子が五代目をやっているというのはどこかで目にした気もする。最初に訪れた際にお茶をいただきながら、「残雪」という名前の由来を楽しそうに、笑いながら話す奥さんと、それをにこやかな顔で聞いている良知さんの姿は今もありありと思い出せる。

「ようやく暖かくなってきたわねって時期に、夫と野道を散歩していて、雪解けの下からちょうど土がのぞいているのが見えたんです。それで残雪ってのが新しくつくった、この白磁のものにぴったりだね、ちょうどいいわねって名前をつけたんですよ」

二〇二〇年一月二六日