相馬裕子がソニーからマーキュリーに移籍してリリースした『プリズム』という、あまり見かけることのないCDをレジに持っていって、袋は要らないと伝えて二九〇円を支払っていると、店員がチラシを差し出しながら、
「ただいま、影の買い取りキャンペーンをやってるんですよ」と、言った。
「何の買い取りですか?」思わず聞き返すと、男の店員は、
「影の買い取りです」と、はっきりと口にした。
一見さわやかそうに見えて実は快楽殺人をしそうな雰囲気を漂わせているその店員はいたってまじめで、冗談を言っているようには見えなかった。
「影が売れるんですか?」
「ええ、最近ではファッションにあわせて影を着替えたりする人が多いので需要があるんですよ」
「それにしても、自分の影なんかに価値がありますかね?」
「詳細は査定後になってしまいますけど、皆さんその価格に驚かれますよ。そもそも供給が間に合ってなくて、とにかく買取を強化してるくらいですからね」
店員はチラシを指差しながら説明してくれたけれど、そこに書かれている金額は二九〇円のCD棚をひとつ丸ごと買い取ってもお釣りがくるほどのものだった。
「無理にとはいいませんが、査定だけでもしてみませんか?」
さわやかツーブロック店員に乗せられて促されるがままに、妙なライトで影を照らされたり、長さと濃さを測定したり、自分の動きに対して影が異常な反応を示さないかなどいくつかの項目についてのチェックを済ませてから、西村京太郎を立ち読みして待っていると、査定が終わりましたという店内放送があった。
店員に提示されたのはチラシで見たものとさほど変わらない額で、自分の影を売るだけでこんな金になるものなのかと驚きつつも、せっかくだからそのまま買い取りを進めてもらうことにした。
書類にあれこれ記入している間に「それではこちらの影はいただきますね」店員が手馴れた様子でくるくると、床の影を巻き取っていく。ロール状にされた影と引き換えに受け取った一万円札で急に分厚くなった財布をしまってから、これでドナルド・キーン著作集を買えると、うきうきした気分で店を出た。
外は昼過ぎで太陽はまだ高い場所にあるけれど、足元を見てもそこにいつもあるはずの黒いものは無い。なんだか気持ちが軽くなったような、ふわふわした気持ちで駅へと歩いていると、歩道の正面から向かってきた自転車が、歩行者である自分を避けようともせずに突っ込んできた。すんでのところでかわしたけれど、自転車に乗ったおっさんはこちらに一瞥をくれだだけだった。
その後も通り過ぎていく人たちがどうもこちらを睨みつけてくるような雰囲気があったり、横断歩道を渡ろうとすると停まって待ってくれていた車が急発進して轢かれそうになったりと、どうにも妙なことばかりが起きた。
それだけではない。気分転換に聴こうとしたジョニ・ミッチェルのライブ盤がなぜか再生できないし、チューリップのプレイリストから一曲減っているような気がして、ウォークマンの中から曲が消えているのかもしれないとおもって調べてみると、マイク・オールドフィールドの『クライシス』に収録されているはずのマギー・ライリーが歌っていた曲が見当たらないし、イギリスにおけるベンチャーズのようなインストバンドに至ってはアルバムごとすべて消えてしまっていた。
『遠い海から来たCOO』の作者も、古賀政男の名曲も、沖雅也が「涅槃で待つ」と言った相手もどうしても思い出せず、悩みながら歩いていると、公園で遊んでいた男の子が目ざとくこちらを見つけて、指差しながら大声で「カゲねーじゃん!」と、叫んだ。
髪がさらさらで丸顔の男の子は、近くにいた子供たちと一緒になって、こちらに向かって石を投げてきた。カゲンを知らない子供に辟易しながら、石が当たらないように避けて歩いていると、騒ぎに気づいた周囲の大人たちがこちらに気づいて、ひそひそと話し込んだり眉をひそめたりしはじめたので、カゲが無いというだけでこんなにも日常生活にエイ響が出るものなのかと、いそいでその場を走り去り、そこからは人目を避けるようにして、家へと逃ゲカえった。
部屋の明かりはつけないようにして、明日になったらもう一度店に行って、やっぱり買い取りはやめにしてもらおうと布団にもぐりこんだ。
あくる日は太陽がすっかり沈んでしまってから、街灯の少ない暗い道を選んで再び店に戻ってきた。閉店時刻が近く、幸いにも店内に客はいない。足元にカゲがないことを店員さんにばれないよう注意しながら入店して、カウンターにいた女の店員に、昨日の昼間に引き取ってもらった商品をやっぱり返して欲しいのですが、と話しかけた。
「うーん、ものによっては難しいかもしれませんね。ちなみにその商品はなんでしたか?」
「それがカゲなんですよ⋯⋯」
「カゲ? そんな物はうちでは扱ってないですよ」
そんなはずはないと、昨日書いた買い取り承諾書のコピーを提示して、査定をしてくれた横山輝一似の店員がいたことを伝えたけれど、
「そんな店員はうちにはいません。いいカゲンにしないと、警察呼びますよ」
と、言われて、あわてて店から逃げ出した。
自分の影はもう取り戻せないのかもしれないと途方に暮れて、ひとまずは家に帰ろうと夜風の吹きはじめた通りを急ぎ足で歩いていると、前方から紙のようなものが飛んできて顔をかすめていった。振り返ると、歩道ではない主に車が通る道路の真ん中にその紙が落ちている。
気になって拾い上げると「シャドウ・オフ、オープン!」と、そのビラには書いてあった。住所を確認するとそれほど遠くはない。そこへ行けば自分のカゲが売られているかもしれないし、もし無かったとしても、ひとまずは中古のカゲでも買っておけば一時しのぎにはなるだろう。
薄暗い夜の住宅街をしばらく歩いて、高速道路の高架をくぐると、その店はあった。単体ではなく複合店のようで、郊外型の店舗らしくずいぶんと規模が大きい。
看板にはシャドウ・オフの他に、「オン・オフ」「ネーム・オフ」「ファイト・オフ」といった店舗名が見える。あとひとつ看板があるけれど、そこはピンク色のいかがわしい照明がすぐ真下にあって、眩しくて判別できなかった。
夜空には雲もないのに、つい先日が満月だったから新月には程遠いはずが、カゲンの月は見当たらない。ほぼ満車の駐車場を抜けて建物の入り口に近づくと、未成年立ち入り禁止の表示があって、「春を売るなら——」という店内放送が聞こえてきた。
二〇二一年一一月二〇日