ブックオフとその精神性について

SNSで多種多様なアカウントが日々更新しているブックオフで安くみつけたCD情報の多くが、巧妙に仕組まれたブックオフの罠だと気づかずに、自分にもそういったレアものを手に入れる機会があるのではないかと勘違いしてブックオフ巡りを始めたばかりの、経験が少ない人々にとって、「先週訪れたばかりの店舗の棚を再び確認しに来る」という行為の、その真意を理解することはなかなか難しい。

一般的に、ブックオフとは漫画を立ち読みしにいくところであって、そもそも本ですらない、いまや店舗によってはコーナーすらなくなっているCD棚をみるという行為は、普通ではない。

かつてはレアなレコードを持つ者同士が果たし合いをして、決闘で生き残った勝者が総取りにしていくというような野蛮な時代があったことは確かだ。だから、そうした戦闘の延長線上でどれだけ多くのCDを買えたのか、一日にどれだけ多くの店舗を回れたのかなどという、スポーツ的な発想でブックオフを巡る行為についてはあながち間違いではない。

しかし、そういったやり方では近頃のすっかり物が少なくなってしまったブックオフではうまくいかないことが多い。

まずはブックオフの棚を見ていくことを狩猟と解すのではなく、それはあくまで精神的な経過だと考えていくことにする。つまらないCDしか買えないこと、それ自体は精神的修練であって、その先を深く理解するために避けては通れない。

外的に何かを行うのではない。自身を相手にして内的に何かを果たす。外部に向けられた視線を無くすことによって初めて、CDを探す行為の本質は深い根底まで還元されて、意義が明らかになってくる。

自分自身の心の乱れ、自らの精神の棚に触れるようにして、その無限の棚からCDを探し出してくることを試行する。手慣れた達人はそうして、レア物に出会える、出会えないという神秘性とたわむれている。

桜の花びらが舞い散る景色を見て何も感じない人がいるように、マンションのベランダに鳥よけで吊り下げられたCDが風に揺られてきらめく様を見て、何の感情も浮かんでこない人がいる。

物質を全てとするコレクター、知識に頼るばかりのレヴュアーの考え方に陥ると、可能性が破壊されてしまう。手に入れたレアCDを数える行為は野蛮な狩りにしかすぎない。経験自体が主要な出来事で、経験を意識的に所有したり、解釈しなおしたりすることには意味がない。

ブックオフに通う人間が行っているのは、ただ単にプラスチックケースに入った円盤状の物質を探し求めることではなく、CD棚、店舗、ひいてはブックオクの流通経路に至るまでと自己を一体化させるための儀式だ。そうした宇宙的な思考で自らがブックオフと一体となるならば、レアなCDは自ずとその中心に在ることになる。

こうした境地に至るためには、意識をもって棚に手を伸ばしているようではまだまだで、無心でただ棚の前に立っているだけで、ひとりでに手が棚に伸びてくれるようになるのを待たなければならない。そうすれば、CDケースの背を凝視して探すことはなくなり、レアなCDがあちらから自然とやってきて、こちらの手の中に収まってくれるのを待てばよいだけになる。

そして、それは一度も訪れたことのない店舗、あまり棚が荒らされていない田舎の店舗に行くことは意味しない。自宅の最寄りにある、いつも汚いトレーナーを着たおっさんが入り口横の自販機の隣に立ち尽くしているような、たいして棚の中身がかわり映えのしない馴染みの店舗でいい。

初めは「無意識になろう」と意識してしまいがちで、棚からCDを抜くという動きにこだわり過ぎて意識をそちらに取られてしまうかもしれない。しかし鍛錬を続けて、試行を重ねていくと、おそらくこういうことをいうと戯言だと捉えられるかもしれないけれど、そのうち何十回に一度だけ、CDケースの背を見なくても「あった」ことがわかる時が来る。

一度、こういう経験をした。それは閉店前ぎりぎりに突然降り出した大雨から逃れるように飛び込んだ店舗でのことだった。

ひどい雨で傘をさしていてもずぶ濡れになってしまい、店内のクーラーに凍えるようにしてCD棚の前に立ったその時、店の外が真っ白に光ると同時に轟音がして、天井の照明が一斉に消えてしまった。

どうやら雷が落ちたらしく、慌てふためく店員の声を聞きながら、不思議と自分自身は落ち着いていた。先ほどのフラッシュが目潰しのようになって、目を開けても閉じても、灰色の視界があるだけだった。

一分ほど経っても停電はまだ直らずに、暗い店内に立っていると、すーっと心がどこかへ落ちていくような感覚があった。そして、それは次第に丹田のあたりに溜まっていくようにおもえた。その時ふと、自分がCD棚の前にいることを思い出し、真闇の中でCDを探すという行為を試みてみようと考えた。

棚にまっすぐ向き合ったまま、体から不思議と力みの一切が消えていて、身体感覚もなくなっているように感じた。あとから考えればまさしく無の境地といってよく、意識していないのに手が勝手に棚に伸びた。次に、指先に少しだけ暖かい感触があって、この世界と繋がっているのは唯一、プラスチックのケースとだけにおもえた。そうして最初に触れたCDを手に取った。

次の瞬間、ぱっと明かりが灯った。電気が復旧したらしく、空調の音と耳障りな店内CMが聞こえはじめた。先ほどまでの感覚はどこかへ消えて、外で雨に降られて濡れた髪の毛の先から、雫が滴っていることにようやく気がついた。

停電中に暗闇で手に取ったCDをあらためて確認してみると、男の顔がジャケに写っている。それは野見山正貴の『フェイス』だった。

この経験を境に、ようやく自分にも棚を見るのではなく、自分自身の内側を見るということへの理解が深まった。そして、疑うこと、問うこと、思いわずらうことをやめた。そうするといっそう、無心でブックオフにいられる時間が増えてきた。「本、あるじゃーん」という気持ちを逆撫でする店内CMも、自分の心には微風すら起こせない。

ある土曜日には開店直後に入店したはずが、気づくともう閉店時間になっていた。何もせずに三三〇円棚の前で立ち尽くしている日が多くなってきた。棚のCDをいちいち見ていくこともほとんどなくなった。しかし、日によっては気がつくと無意識に手が棚に伸びていることがあって、そうするときまってレアなCDを手にしている。

もう良いCDを手に入れても感動はなかった。それはブックオフと一つになっているという間違いのない感覚、その副産物でしかなくなっていた。

その暑い日はいつもよりも早く正気に戻った。なにも買わずにブックオフの店外に出たところでふと横を向くと、いつも見かける小汚いおっさんが、自販機に隠れるようにして股間を掻きむしっていた。トレーナーにはあちらこちらに汚らしいシミがあるし、髪は伸び放題で脂ぎっている。

しかしその時、初めて気がついた。そのおっさんの立ち姿には不思議なくらい力みを感じない。ごく自然に、まるでブックオフと一体化しているように見える。

自分はまだCD棚の間にいなければそういった境地には達せない。おっさんはブックオフの店内ではなく店外にいるにも関わらず限りなく無に近い状態で、なおかつブックオフと繋がっている。このおっさんは、はたして何者なのだろうかと驚いた。

自分は恐る恐る、大きく飛び出したおっさんの鼻毛に気を取られながら、勇気をだして声をかけてみた。

「もしかして、あなたは私の師ではありませんか?」

おっさんは小さく微笑んで、そのはずみに詰まっていた鼻くそが少し飛び出した。かさかさの唇が開いたかとおもうと、ねちゃっと口に唾液が糸を引き、おっさんは半笑いで、

「あ、なんだー、おっぱい揉みてえなー」

と、言って、それから静かに放尿を始めた。ズボンにゆっくりと染みが広がり、足をつたう液体はとどまることなく、静かにアスファルトへと広がっていった。

二〇二二年六月一〇日