ある島での出来事

大学の卒業旅行として、東海地方のとある島を訪れることになった。旅のプランや予約などをすべて友人に任せっきりにして、ただ後ろからついていくつもりだったのでなにも言えないのだけれど、なぜそんな小さな島へ行くのかと疑問におもい事前にネットで調べてみると、いくつものあやしげな情報が出てきた。

友人は髪をドレッドにしていて、上野のアメ横の服屋で働いている。いつもラスタカラーでボブマーリーが好きだし、どっぷりとフィッシュマンズにハマっていたし、どうも瞳孔どうこうが開いている時があったりして、はっきりと確かめたことはなかったけれど、なるほどなとおもった。

半島の先からフェリーに乗って島に渡り、旅館にチェックインするともう夕方だった。とりあえず宿の温泉に入ってみると、友人はフェリーで酔ったのか体調がすぐれなくて、部屋で寝ていると言い出したので、ひとり静かな島を散歩しに出かけることにした。

島はほとんどが山で、湾に沿ったわずかな平地に家や旅館がある。漁港には船が多く泊まっていて、少し歩くと小さいながらも海水浴場があり、夏は観光客が多いのだろうかとおもった。

宿はなぜか素泊まりで、夕食はどこか店を予約しているらしかった。しかし、肝心の友人の体調は戻らず寝たままで、場所と合言葉の書かれたメモだけを渡され、ひとりきりでそこへ行くことになった。

メモに従って防波堤を過ぎ、森の中の遊歩道を抜けていくと、木々に隠れて一軒家があった。扉を開けて予約名と合言葉を伝えると、店の奥へと通される。店内に席などはなく、そのまま素通りして奥の扉を開けると、そこはプライベートビーチになっていた。パリピのようなグループの脇を抜けて席に案内されて、クッションが沈みすぎる落ち着かないソファに腰を下ろした。

飲み物を聞かれたのでとりあえずコーヒーを注文すると、一緒になにやら食前酒のようなものが運ばれてきた。普段は酒なんて飲まないのにどうも断れるような雰囲気でもなく、たまにはいいかと仕方なく飲んでみると、アルコールが強いわけではないのにすぐにおかしな気分になってきた。

海はすぐ目の前にあるけれど、スピーカーから大きな音量でどろどろした音楽が流れていて、波の音はほとんど聞こえない。周りを見渡すと食事をしている人もいて、なんだかオムレツのようなものを食べている。

予約の段階でメニューはもう決められていたらしく、しばらくすると自分のところにも料理がやってきた。ボーイさんが持ってきた大皿にはボラの丸焼きが乗っていて、おいしそうなオイルでひたひたになった上から黒っぽいキノコやハーブ類のようなものがふんだんにかかっている。

ボーイの人はアジアのどこかの出身らしく、日本語が通じない。箸やフォークはないのかとジェスチャーでたずねると、丸かじりしろという身振りが返ってきて、まるでホドロフスキーの『サンタサングレ』の冒頭みたいだなとおもった。

それから、どこかの馬鹿がいらないことを教えたらしく、ボーイは満面の笑みで「食ってみろ、飛ぶぞ」と言い残して、去っていった。

ボラにかじりついてみると少し塩が効いているくらいで、おもったよりも味はしない。ハーブの強い香りが鼻の奥にずっと残っているようで、丸かじりしていると口や鼻のまわりはすぐにオイルまみれになった。

手をベタベタにして、いったい何をしているのだろうと一瞬、正気に戻りかけて、おしぼりで手を拭きながら月明りのない暗い海を眺めていると、遠くの方に大きな貨物船がゆっくり通り過ぎていく影が見えた。

ボラを食べすすめていくと、なんだか体が冷えていくような、妙な感覚があった。そのうち砂浜だとか、他の客が座っている椅子やテーブルなどが、急にぼこぼこと膨れ上がるように見えはじめた。友人が予約しているようなところだからと不審におもっていたけれど、気づいた時にはもう遅く、黒々としていたはずの海が唐突に鮮やかな原色のマーブル模様になり、ぐるぐると回転を始めた。

スピーカーからの低音はいつしかやんでいて、誰かがカリンバを演奏しているのが聴こえてくる。カリンバという楽器はキーを変えられないはずなのに、不思議なことに頭の中で自由自在にそのキーを変更できた。西武新宿駅近くの路上でカリンバを演奏しているのを何度か見かけたことがあって、その時はキーが変わらなくて退屈だなとおもっていたけれど、自分の好き勝手に転調ができるようになると得もいわれぬ複雑なメロディーになって、こういうことだったのかと合点がいった。

演奏を聴いて、ふわふわした気持ちで楽しい気分になってきていたところが、ふと海を見るとマーブル模様は消え去りいつの間にかまた真っ暗に戻っていて、それが急にとても恐ろしく感じてきた。その暗闇はまるでこちらに覆いかぶさってくるようで、怖くてしかたない。

どす黒い布のようなものに飲み込まれてしまいそうな気持ちがして、手で視線をさえぎろうにも体が動かず、暗い海から目が離せない。そのうち、海の中に緑色した大きな目がいくつも浮かんできて、それらがすべて、こちらをぎらぎらと冷たくにらみつけてくるようになった。

いつしかカリンバの音は止まっていて、スピーカーからはまたどろどろとした音が流れている。この世界にはもう救いがなくて、どこかへ逃げ出すか、いっそ死んでしまうしかないんじゃないかと考えはじめていたところで、海に浮かぶ無数の目の中にばしゃっとボラが跳ねるのが見えた。月も出ていないのに、ボラのウロコは光を反射して、きらきらと銀色を放っていた。

海面に広がる波紋が消えてしまう前に、また別の場所でボラが跳ねた。さらに次のボラが跳ねて、黒い海の上に美しい螺鈿らでん細工ざいくのような光が次々ときらめきはじめた。その絢爛けんらんとした様は暗い夜空を明るく染めていくようで、ふと空を見上げると、見渡す限りに星がまたたいていた。どこまでも広がる星空に吸い込まれそうになっていると、まだ生きていてもいいような気分になってきた。

二〇二一年三月五日