感覚

オープン初日の賑わうデパートと、通りを挟んだ向かいのビルとの間に一本のロープが渡されていて、男が一人、棒を両手に持ちバランスを取りながら、一歩ずつ慎重に進んでいく。

仰ぎ見ることで自然に口が開いた人々が、ツバメのひなのようにそれを下から見守っている。

男は別に軽業師になりたいわけではなかった。あまり儲かっていない家業を継ぐこともできたけれど、ふとした成り行きでこうして文字通り、綱渡りの人生を送ることになった。

元来、男は何事にも器用ではあったけれど、それでも他の人と比べると、ずいぶんと綱渡りの才能があったようだった。ロープを渡っている時は無の境地のようなもので、特別なにかを意識することもない。綱渡りは危険に見えるけれど、一度慣れてしまえば案外そうでもなく、風が強く吹いてロープが大きく揺れたとしても、いまでは経験でなんとかできるようになった。

デパートの入口でもらった赤い風船を左手に持つ少女は、母親にねだって露店でソフトクリームを買ってもらった。右手でコーンを受け取ろうとして、少女は一瞬だけ風船のことを忘れてしまい、ひもを手放してしまう。

赤い風船は人々の視線の先をたいして加速するでもなく、ゆるゆると横切っていく。ビルに引き寄せられていた風船は気まぐれに一転して、さっと向きを変え、開けた青空を目指してのぼっていった。

見上げる人々は一瞬、風船がロープに当たるのではないかと考えた。しかし、たった数センチの細さのロープに風船が当たる確率は限りなく低いだろうし、それに風船のようなほとんど空気と変わりないものが、綱渡りにいったいどれだけ影響するというのだろう。

人々の予想に反して、風船は空を区切る一本の線へとまっすぐ吸い込まれていって、規則的に歩みを進める男がちょうど足をあげたタイミングで、死角になっている背後のロープをそっと撫でた。

風船はそのままロープから離れると、あとは真っ青な空へと消えていって、その赤い点はじきに見えなくなった。

男はいままで感じたことのない、ロープの小さなうねりを感じて、動きを止めた。綱渡りの最中はロープと一体化しているから、どんな小さな変化でもよくわかる。これは風ではない。風は下からロープを突き上げるようなことはしない。

歩みを止めたまま状況がよく理解できないでいると、ふいに、男は足の下ろし方を忘れていることに気がついた。ずっと感覚だけでこなしてきたから、咄嗟とっさの出来事で綱渡りのやり方がわからなくなってしまったらしい。

それでもいままでの経験で、男はなんとか片足のままバランスを保っている。いつまでこの状態で耐えられるのかはわからないけれど、以前の感覚を思い出すきっかけがやってくるかもしれないから、それを待ってみようと考えた。

デパートの下で見守る人々は、この曲芸が成功して、あとは拍手することしか頭にはない。それなのにロープの途中に片足で立ち、必要以上にじらしているような男の姿に、人々は徐々に苛立ちをおぼえてきた。お待ちかねの福引大会は、この見世物が終わらないことには始まってくれない。

男が感覚を取り戻せないまま時間は過ぎていく。あせりを感じ、これまでの経験からなんとかなるかもしれないと、意を決して足を下ろそうとしたところで、男はロープを踏み外してしまう。ぐらっとバランスを崩して、おもわず手放してしまった棒が先に落下を始めた。

人々があっと声を上げた次の瞬間、体勢を崩して宙に放り出されていた男は鳥に姿を変える。そして空に消えた赤い風船とは別の方角へと、灰色がかったあまりぱっとしないその鳥は大きく羽ばたくと逃げ去るように、一目散に飛んでいってしまった。

唖然として取り残されたままの人々はこのショーの種明かしを待つけれど、ビルを横切るロープが小さく揺れて、落ちてきた棒が地面にからんと音を立てた他には何のアナウンスもなく、それからはもう何も起こらない。

二〇二二年四月二〇日