皇帝の虫

旅先では図書館へ立ち寄る習慣がある。町史や市史はその土地で調べるのが一番だし、ローカルな新聞社が発行した本から、地元の古い風習や迷信などについての思わぬ知識が得られたりする。

北海道旅行の最終日に、女満別めまんべつ空港に向かうバスまで時間があるのをいいことに、稚内わっかない市立図書館へいって本棚を眺めていると、さっそく北海水産新聞社刊の『ホタテ貝取引の手引』という本をみつけた。ホタテの貝毒についての解説を熱心に読んでいると、小指の先ほどの大きさの虫がどこからか飛んできて、開いたページの上にとまった。

手で覆って逃げられないようにしておいてから、用心深くつまんで手のひらに乗せてみると、その虫は黒いコオロギのような外見をしている。そのままどこかに飛んでいくかとおもいきや、虫はあわてて手の裏側に回り込んで隠れようとするばかりだった。

手をくるくると回して虫をからかって遊んでいると、テーブルのはす向かいに座っていた老人が気づいたらしく、身を乗り出してきてぼそぼそとした声で、

「めずらしい、○○○○ムシですか」

と、言った。虫の名前のところはよく聞こえなかったけれど、自分は虫にまったく興味がないから、たぶん聞いたところで記憶には残らなかっただろう。

「ああ、そうなんですか」

適当に聞き返すと、「越冬はできないし、そもそも寿命も長くないはずですよ。この季節にいるのは不思議ですね」老人は首を傾げた。

「屋根裏に棲家でもあるんじゃないですか。ほら、あそこにすこし隙間がありますよ」

天井の板が少し開いている箇所を指差してみせても、老人は納得がいかない様子だった。

「いやそれにしてもなあ。ちょっと、その虫を見せてもらえませんか」

「ええ、どうぞ」

手のひらを這っていた虫を渡すと、老人はポケットからルーペを取り出して、ばたばた脚を動かしている虫を裏返し、腹をしげしげと観察しはじめた。

「ああ、いや、これはしかし」

独り言を言っている老人は放っておいて、こちらはこちらでそれほど時間がないので急いでホタテ本に戻り、「マヒ性の原因はゴニオラックス・カテネラによる、下痢性はディノフィシス・フォルティ」と、貝毒の原因プランクトンのメモをとることに専念した。

虫に顔をくっつける様にして、老人があまりにも熱心に観察しているから、軽い気持ちで「虫がお好きなんですね」と、たずねてみたところ

「まあ趣味でしかないんですが」

前置きをしたかとおもうと急に饒舌じょうぜつになって、老人は虫について早口で話をしはじめた。

老人が発する長々とした虫の名前も、珍しい虫が発見された海外のよくわからない地名も一切、頭に入ってこなくて、「へえ知らなかったです」とか「そうなんですね」と、適当に相槌あいづちだけしておいて、こちらはこちらでホタテの流通に関する中間マージン問題についての文字を追った。

老人はよどみなく、こちらが話を聞いているのかどうかは気にもとめていない様子で、様々な虫知識を披露しているけれど、自分はきっと無の表情をしているのだろうなとおもった。

ホタテの養殖に関するメモを取り終わったところで、老人の話題はいつしか手にしている謎の虫に戻ってきていた。

「しかし、いや、それにしても小さすぎる」

ぶつぶつ呟いていたかとおもうと、老人はふいに顔を上げ、

「すいませんが、この虫、もらってもいいですか」と、言った。

「ああ、どうぞ。かまいませんよ」

時計を見るとそろそろ空港行きバスの時間が近い。ノートをしまってホタテ本を元の棚に戻してきて、トイレを済ませて席に帰ってくると、老人は常に持ち歩いているのか、バッグから小さな容器を取り出して、大事そうに虫をしまっているところだった。

「自分にはわからないんですけど、その虫は貴重なものなんですか」

「いや、それはこれからしばらく飼ってみなければわかりません」

容器の中で落ち着かないのか、黒い虫は動き回っている。

「この種の中には長寿な個体がいるんです。そもそも、普通は越冬すらできないですよ」

自分はちらりと、窓の外の雪景色を見た。

「そして中にはごくまれに、何年、何十年と生き続けるものもあるという話です」

「虫がですか、まさか」

「皇帝の虫について、ご存知ではないですか」

「いえ初耳ですね」

「中国王朝の代々の皇帝は皆、虫を飼っていたんですよ」

老人は容器の蓋を用心深く閉めた。

「皇帝の虫と呼ばれるものにはオスとメスのどちらの特徴もなく、生殖活動はせず、卵も生みません。先代の皇帝から受け継いだものであったり、またはどこからか探し出してきたものであったりしたらしいんですが、その虫は食料さえ与えておけば、何年でも生きたという話です。ただ、潰してしまったりすれば普通に死んでしまう。そうすると、みるみるうちに反乱だとか、暗殺だとかが起こり、権力の座から転落してしまうことになったとか。だからその虫の存在は誰にも知られぬよう、きさきや側近にすら教えられることはなく、密かに寝室で飼われていたといわれています。闘蟋とうしつはご存知ですか」

「虫を闘わせるやつですよね、たしか中国の。宮廷でも流行していたとかいう」

「あれはカムフラージュなんですよ。皇帝の虫を飼っていることを隠蔽いんぺいするためのものです。寝室から虫の鳴き声がしても、それほど不思議には思われないですからね。夜、皆が寝静まった頃、虫は鳴き始めるんです。ぎりぎりとあまり美しくない声で」

老人は容器の中を歩き回っている黒い虫を光にかざして、うっとりとした表情をしている。

これ以上かまっていてもバスの時間に遅れてしまうから、「じゃあ自分はこのあたりで」と、声をかけて立ち上がったけれど、老人はそれに気づいた様子もなかった。図書館の出口に向かう自分の後ろから、老人の独り言が聞こえてくる。

「長年、権力の座にしがみついて、ほこを向けそうな人物を排除し、政治闘争に打ち勝って、自らの周りから人を遠ざけて、孤独になればなるほどその虫はえられない声で鳴くんですよ、夜中から朝方までずっと」

二〇二二年三月五日