鯔のおんがえし

海の近くにあるそのハードオフは、場所柄かサーフボードがとても充実していた。ジャンク箱からアカイの古いサンプラーで使えるSCSIケーブルをみつけて上機嫌で駅へと歩いていると、海岸のほうがなにやら騒がしい。砂浜におりてみると子供たちが数人で輪になってなにかをののしっていた。

「くせーんだよ!」

「デトリタス食ってんじゃねえよ!」

その中心には打ち上げられたボラがいた。もう跳ねる元気もなくあとは死を待つばかりのようで、砂にまみれたあわれなボラを放っておくわけにもいかず、子供たちにはリアルに千円ずつを渡して帰ってもらった。

あたりにはギャルのカラコンのような、大きな鱗ががれて散らばっている。ボラの潤んだ瞳がこちらをじっと見つめていた。息もえなボラを抱えて、急いで海へ戻してやろうと走ったけれど、波打ち際だとすぐに寄せ波で戻ってきてしまう。十二月で凍るような冷たさだったけれど我慢して海へ入り、すこし沖の方で放してやるとようやくえら呼吸ができたのか息を吹き返し、しばらくするとボラはあたりをすいすいと泳ぐようになった。

感謝しているかのようにばしゃばしゃとジャンプするボラを見て、安心した。善行をした満ち足りた気持ちでいると、不思議なことにどこからか声が聞こえてきた。

「ありがとうございます、あなたは命の恩人です」

その澄んだ声は直接脳内に響き渡るようだった。

「私です、いま助けてもらったボラです」

ボラが好きすぎてついに幻聴が聴こえるようになったのかと不安になったけれど、その前に、服を着たまま真冬の海に入っている怪しげな男を見つめる通行人の視線に気がついた。通報されてしまう前にあわてて海から上がり、少し離れたところにある岩場まで移動して、ボラと精神的な会話をした。

「お礼になんでもします。竜宮城でもどこでもお連れいたします」

自分は竜宮城には興味がなく、ただただボラの産卵場所へ連れていってほしいとだけ伝えた。

「産卵場所ですか、通ですね。わかりました、では水中でも息ができるようにしましょう」

ボラに誘われてふたたび冷たい海に入ろうとしたが、身分証やクレジットカードが入っているからバッグを持っていくわけにもいかず、しょうがなく岩場の影に隠しておいた。このままだと若人あきらみたいに失踪扱いされてしまいそうだったけれど、ボラの産卵場所に行けることのうれしさから、あまり深くは考えないことにした。

ボラの尾ビレにつかまり海中へ潜っていくと、ボラの群れがあらわれて、自分の体を押してくれるようになった。凍死しそうなほどの水温のはずが、どういったわけかそれほど冷たくもない。ただ、すごく速いスピードで泳いでいくので、人間の自分にはボラのように脂瞼しけんがないから、水流で目を開けられなかった。脂瞼というのは眼を覆う硬い膜のようなもののことで、主に回遊性をもつニシンやアジ、ボラなどの魚が持っている。

眼が開けられないことをボラに伝えると、

「それでしたら我々のように、あなたにも脂瞼をつけてあげましょう」

と、こともなげに言った。次の瞬間、眼のあたりにピリっとした痛みと違和感をおぼえ、触ってみるともう脂瞼がついている。

脂瞼のおかげで、そのあとは水流があっても眼を開けていられるようになり、まわりの景色を眺める余裕ができた。脂瞼には偏光の効果があるらしく、さっきまでは青かった水中の風景がどこも緑色に見えるようになった。エメラルドの海を泳いでいると、ボラが体をひねる度に光の加減が変わるのか、鱗が黄色く見えたり、藍色になったりとなまめかしく、美しく変化する。

海水はしだいに温かくなってきていて、ボラたちは南のほうへ向かっているようだった。ボラは南方の海域で産卵しているということが知られていたけれど、正確な場所やその産卵方法については研究が進んでおらず、まだ詳細は判明していない。その産卵を目撃できる喜びと興奮を感じていると、ボラたちはより一層深い、海溝のようなところへと降りていった。

あたりには雪のようなものが舞っている。これらは「マリンスノー」と呼ばれる小型生物の死骸などが深海まで降りてきたもので、脂瞼を持ったことで光の加減が変わるのか、マリンスノーは以前テレビのドキュメンタリーでみたような白色ではなく、舞うたびに赤やピンクに色を変える。ボラの目で見ると水中の世界はこんなに鮮やかなものなのかと感心した。

さらに水深がふかくなっていくと、周囲のグリーンも深く、濃くなっていく。音も聞こえず見渡す限りの緑色に包まれているとふいに、無意識にメロディを口ずさんでいた。

 

 

And everything is green and submarine

 

 

「それは何?」

案内役のボラが不思議がった。ボラには声帯がないから歌というものがわからないらしい。病理を抱えた人間にしか作れない『歌』というものについてまずは説明して、これはピンクフロイドの「エコーズ」という、とても長くてすばらしい曲だということを伝えた。

そこではっと気がついた。サビの歌詞の続きはこうだ。

 

 

And no one knows the where's or why's

But something stirs and something tries

And starts to climb toward the light

 

誰もどこなのか、なぜなのかを知らないけれど

そこで何かを混ぜたり、試したりする

そして光へむかって、のぼっていく

 

 

海溝の底へたどり着くと、そこにはすでに見渡す限り一面にボラが集まってきていた。何かを待ち構えるかのようにゆらゆらと漂う魚群に、どこからか淡いオレンジ色の光がさしこんでくる。こんな深海にまで届く光があるのかとおもっていると、助けたボラが語りかけてきた。

「一年に一度だけ、ある時間帯に月の光がこの深海まで届くタイミングがあります。それが始まりの合図です」

ボラたちは光をかき混ぜるかのように、あたりではげしく動き始めた。ボラの背ビレは鋭くて当たると痛いから、すこし離れてその騒ぎを見守ることにしたけれど、砂や堆積物が舞い上がってすぐに見通しがきかなくなった。ボラはあわただしく動いているようだが、何をしているのかまではわからない。

すこし上方へ泳ぎ、真下を眺めてみると、大きなもこもことした砂の塊の中に時おりひるがえったボラがぎらぎらと光っている。暗い緑色をした海の底で、そういえば自分はえらもないのにどういう仕組みで息ができているのだろうと、ためしに肺に残っていた空気を吐き出してみると、ゆらゆらと泡は上へとのぼっていく。こんな深海からだと、泡が水上までたどり着くのにどれだけ時間がかかるのだろうかと眺めているうちに、差しこんでいたオレンジ色の光はそろそろ消えようとしていて、上方へと向かう泡が月の光をさえぎり、ミラーボールのように砂底のところどころへ丸い影を落とした。ボラたちの騒ぎはそろそろ静まろうとしている。

二〇二〇年九月三〇日