変拍子の楽園
瘴気が漂っているような陰気な森だったけれど、ひとたび足を踏み入れると、誰にも見られることなく身を隠していられる安心感があった。どこか遠くから時折、得体の知れない鳥のするどい鳴き声が聞こえてくる。森の奥へと続く道らしきものは、ぼろぼろに風化した岩や腐りきって泥のようになった植物にほとんど覆われてしまっていて、その左右からは不健康に痩せ細った木の枝と、人間よりもはるかに背の高い草が迫ってきているし、足元にもわずかな踏み跡しかなく、あと数ヶ月も経てばここに道があった痕跡はすべて失われてしまいそうだった。
森に入ってからはもう電波はあてにならなくて、バッグから取り出したコンパスを頼りに、時にはルートファインディングをしながら森の奥へと慎重に進んでいく。そうしながら少しでもこの道が長く残ってくれるように、また遠くない未来に自分と同じ場所を目指そうとする奇特な人間のためにと、道の真ん中に転がる石は蹴飛ばし、草をわざと踏みながら足跡が少しでも残るようにして歩いていった。
森の中は鬱蒼と灰色がかっていて、視界が狭く、先があまり見通せず心細い。妙に赤いカビに侵され、幹を覆い尽くされてしまっている樹木を横目に、木々の間を縫うようにしてどこまでも延々と続くようにおもえた道を無心で歩いていると、そのうち前情報どおり、斜面に突き当たった。
足下の踏み跡は斜面に沿うようにして右へと折れ曲がっている。念のためコンパスで方角を確認してから、踏み跡は追わず、正面の斜面を登っていく判断をした。
斜面は崩れやすい石で覆われていて、そこに道があるようには到底おもえない。かろうじて生え残った木を足掛かりにしつつ、斜面を登る選択が正しかったのかどうか不安な気持ちを抱えたまま、露出した木の根や落ち葉の塊で足を滑らせないよう、注意を払って慎重に一歩一歩登っていくと、今にも千切れてしまいそうな色褪せたピンク色のリボンが木の枝にくくりつけられているのが見えた。
斜面を見上げて目を凝らしてみると、同じようなリボンがジクザクに一定の間隔で続いている。どうやら判断は正しかったらしく、ルートを間違えていないことに少し安堵した。
今度は確信を持って、ガラガラと崩れ落ちる不安定な岩に足を取られながら、時間をかけてガレ場を登りきると、尾根に出た。尾根に沿って、左右にわずかな踏み跡が続いている。すぐ右手には木々の途切れた箇所があって、腐りかけた大木が横たわっていた。
きつい登りを終えて全身に汗をかいている。息切れしていることもあって、木の幹に腰掛けて少しだけ休憩していくことにした。呼吸を整えながら木々の切れ目から見下ろすと、どこまでも続いている森を一望できる。遠方から漂ってくる靄があたりを包み込んでいて、なんだか森を蝕んでいるようにおもえた。
風はなく、眼下の景色は静まり返っている。ここまで進んできた中で、多くの大木が腐り、倒れてしまっているのを目にしてきた。この森も徐々に死に向かいつつあるのかもしれないけれど、こんな状況でも活動している生物はいるらしく、どこからか騒めくような鳴き声が聞こえてくる。
深呼吸をして動悸が落ち着くのを待ってから、ずれたマスクを直し、バッグから小型のスピーカーを取り出した。バッテリーの残量が十分にあることを確認し、ボリュームを最大に設定してからプレーヤーの再生ボタンを押すと、甲高いピーピーという鳥の鳴き声が森に響き渡る。これはヨンビョウシギというチドリ目の鳥の鳴き声を再現した鳥笛の音声で、かつて販売されていた『鳥笛コンピレーションCD』に収録されていた音源だった。
ヨンビョウシギの鳴き声は、時々フラットする音程の不安定さとは裏腹に、どこまでも正確な四分の四拍子を刻みつづける特徴があった。かつてはどこの森にも生息していたらしいけれど、今は数が減ってしまい、ヨンビョウシギを見かけることはほとんど無くなってしまった。
ゆらゆらと揺れる音程の鳴き声が途切れることなく、静まり返った森に響き続けているとそのうち、どこからともなくカツカツと木を叩くような音が聴こえてきた。狙い通りだと、スピーカーを持つ手に思わず力が入る。
ヨンビョウシギの鳥笛の音につられるように聴こえてきた音はまったく同じテンポで、正確に五拍子のリズムを刻んでいる。これはヘンビョウシキツツキという鳥が木を突いている音で、ヨンビョウシギのの音に正確にBPMを合わせているから、四分の四拍子と五拍子で、二十拍に一度だけ必ずフレーズの頭が合う。
ヘンビョウシキツツキはとてもナワバリ意識の強い鳥で、特にヨンビョウシギの鳴き声がすると、それに張り合おうと木を突きはじめることで知られていた。五拍子を変拍子とみなす西洋音楽にかぶれた狭い了見で名付けられた鳥ではあったけれど、ヘンビョウシキツツキはそんなことは気にもとめず、森にリズミカルな音を響き渡らせている。
この鳥たちのナワバリ争いは、相手につられてフレーズを崩してしまったほうが負けになる。自然界ではだいたいヨンビョウシギが負けるようになっているのだけれど、鳥笛の音源はずっと同じテンポで延々とフレーズをループさせているから、二羽のアンサンブルはいつまでも途切れずに、どこまでも正確なポリリズムが続いていった。
機械的な正確さでもって演奏されるナワバリ争いをじっと息をひそめて聴いていると、前方の森から黒い影が静かに靄を切り裂くようにして飛んできて、あたりで一番高い木のてっぺんに留まるのが見えた。目を凝らしてもその鳥の正確な姿は確認できないけれど、すぐにホウホウと複雑なリズムとメロディで鳴きはじめた。
森に響き渡るそのフレーズは八分の七拍子をしていて、鳴き声の主はフクロウ科の鳥、ポリリズクに間違いなかった。
ポリリズクは、ヨンビョウシギとヘンビョウシキツツキが鳴きあっているとどこからともなくやってきて、二羽のナワバリ争いをより複雑なポリリズムにしてしまうのを趣味とする変わった鳥だった。
自然が生み出す神秘のポリリズムを注意深く、指で拍を数えてながら聴いていると、ちゃんと百四十拍に一度だけ正確に三つのフレーズのアタマが揃うのがわかった。どこまでも繰り広げられる正しい規律の自然の神秘は、やがてポリリズクの八分の七拍子のフレーズが四プラス三から三プラス四へと変化した。これはポリリズクが興奮してきた兆候だった。
ポリリズクの歌い方が変わったことを確認してから、スピーカーの音を止めてすぐにバッグにしまいこんだ。ピーピーという鳥笛の四分の四拍子が止むと、ナワバリ争いに勝ったことに満足したのかヘンビョウシキツツキもぱたっと木を突くのをやめてしまったけれど、一方のポリリズクはなおも大きな鳴き声で、複雑なフレーズを気持ちよさそうに歌っている。
バッグを背負い、出発の準備をして待ち構えていると、ポリリズクは鳴きながら元のやってきた方向へと飛んでいった。その姿は見えないけれど、さっきよりも少し遠ざかった鳴き声を頼りに小走りで森を進んでいく。少し近づくと、ポリリズクが次の木へと飛んでいったのかホウホウという声がまた遠ざかる。興奮したポリリズクは鳴くことを止めないので、その声を追って稜線を外れ、斜面を滑るように駆け降りながら、森のさらに奥へと急いだ。
ここまでは計画通りだった。目指している『森のブックオフ』と呼ばれるその場所の近くには、ポリリズクの巣があるという言い伝えがあった。ポリリズクを追ってその巣へ近づけば、おのずと『森のブックオフ』へたどり着けるに違いなかった。
静かな森には変拍子が響き渡っている。ポリリズクの鳴き声は気分よさそうに転調しながら、森の奥へと続く確かな道のように、どこまでも連なる木々の間にこだましていた。
物事はかつてあったものではない
はるか遠くへ行ってしまったポリリズクの鳴き声を時には全力で走って追いかけていると、息が上がってきた。一・五キロヘルツあたりのミッドが良く出ているヌケの良い鳴き声だからまだかろうじて聞き取っていられるけれど、人と鳥だとさすがにそもそもの移動スピードが違う。鳴き声を追えなくなれば、もう一度、鳥笛音源でヘンビョウシキツツキを呼び出す必要があるかもしれないけれど、そう何度もうまくいくとも限らない。
あたりは背の高い樹木が織り成す森で、その木々の先端は遥か上方にあり霞んでいて見えない。ポリリズクを追ってもうずいぶん奥まで入ってきたはずなのに、先ほどまでとはうって変わって、足元には比較的明瞭な道が続いていた。誰かが歩かない限り、道はすぐ森に紛れてしまう。踏み跡をつけているのは何者なのだろう。
ほんのわずかな鳴き声を追いかけて小さな坂を下ると、左手に沼が現れた。どこから水が流れ込んでいるのかわからないけれど、その澱みのところどころが泡立っている。有毒なガスが出ているのかもしれなくて、あまり長居しないよう、さっさと通り過ぎたほうがよさそうだった。
沼の中にはかつて太陽光発電に使われていたというパネルがいくつも沈んでいるのが見える。足を踏み外して落ちないよう注意して淵を歩いていると、沼の奥のほうでばしゃっと魚が跳ねた。こんな汚染されていそうな水中でも生きていける魚がいるのかとおどろいた。
ソーラーパネルの向こうで跳ねる魚を見て、森の奥深くで暮らす〈森の住民〉たちはソーラーパネルを漁に使うと耳にしたことがあるのをふと思い出した。今やほとんど太陽を目にすることはなくなってしまったけれど、それでも一年に何日かは晴れる日がある。その差し込んだ太陽の光によってソーラーパネルが発電することで、水中に電流が走り、魚を一網打尽にできるのだという。
もしこの沼のパネルがまだ生きていて漁に使われているのだとしたら、このあたりの道がはっきりしているのにも納得がいく。ただその場合は、知らないうちに〈森の住民〉たちの領域へと足を踏み入れてしまったことを意味していた。
〈森の住民〉は話が通じる相手なのだろうか。あちらから見れば、自分はテリトリーを犯しているようにしかみえないだろうし、友好的でなかった場合はそれで終わりだろう。それに、〈森の住民〉たちであれば自分が森に侵入したことぐらい、もうとっくに気づいているかもしれない。
沼を通り過ぎてしばらくすると、周囲に茂みが現れて、やがて足元の踏み跡は途切れてしまった。ここから先は藪漕ぎをしてルートを探す必要があるけれど、腰ほどの高さがある植物が生い茂っていて、うっかりすると道に迷ってしまいそうだった。
ポリリズクの声は遠くの方からまだかろうじて聞こえているけれど、その声は正面の茂みの向こうから聞こえてくる。念のためコンパスで調べてみると、それは妥当性のある方向のようだった。ただ、さっきよりもコンパスの反応が鈍く感じて、ポリリズクを逃して藪の中に取り残されてしまうと危険かもしれず、もう一度スピーカーを取り出し、ポリリズクを呼び寄せてみるべきかどうか考えていると、右手の茂みがガサガサと揺れた。
身構えると同時に、大きな影が姿を現した。
その影は背中にとんでもなく巨大な荷物を背負っている。背負子に高く積みあがった荷を崩さないよう、ゆっくりとした足取りで茂みを掻き分けてきたその人物のことを知識としては持っていたけれど、家を持たず、必需品をすべて背負い、森の中をずっと歩きつづけている〈歩荷〉と呼ばれている人を実際に目にするのは初めてのことだった。
マスクに覆われていて表情はわからないけれど、少なくとも〈歩荷〉は敵意を持っているようには感じられない。
〈歩荷〉は少し驚いた様子で、
「こんな所で何をしているんだ」
と、低い声で話しかけてきた。〈歩荷〉の大きな背丈のさらに倍ほどもありそうな荷物の山を見上げながら答える。
「この先にあるという『森のブックオフ』を目指している」
「ああ、またか」
マスク越しにくぐもった声が答えた。
「何年か前にも同じように『森のブックオフ』に行こうとしていた奴に会ったな。お前たちは理解していないのかもしれないが、この辺り一帯は〈森の住民〉のテリトリーの真っ只中だ。どれだけ危険なことをしているのかわかっているのか」
「覚悟の上だ。危険だとしても、そのブックオフに行かなければならない」
「そうか、ならついてこい。近くまでは案内してやろう。ルートを変更するのはあまり好きではないが、そちらへの道を歩いておいても損は無い」
そう言って〈歩荷〉は、自分の目には道があるようにはおもえない、左手にある茂みへとゆっくり歩き出した。
「ポリリズクの鳴き声はこっち側からしているのに、そっちで合っているのか?」
立ち止まり耳をすませて、遠くから聞こえてくる八分の七拍子の鳴き声を確認し、あきれたように〈歩荷〉はこちらを振り返った。
「言っただろう、ここは〈森の住民〉たちの場所だ。鳴き声のする方向へ進んでいくと、じきに彼らの住処へ行き着いてしまう。彼らをできるだけ刺激しないよう、遠回りしたほうが身のためだ」
「わかった」
茂みの中をゆっくりと歩を進める〈歩荷〉の後ろについていると、視界には大きな荷物と背の高い草しかなくなって、すぐに自分がどの方角に進んでいるのかもわからなくなった。
「あなたを信用していないわけじゃないけれど、ここには道があるようには思えない。迷ったりはしないのか」
「我々の方向感覚と経験は、コンパスなんかよりも正確だ。それに、実際に道を歩いて作っている脳内の地図でどこにいるかは常に把握している」
〈歩荷〉は一歩一歩、道を踏みしめていくけれど、その身長よりも高く積まれた荷物は不思議なくらい安定している。
「そもそもここは本来の道ではない。あくまで道から道へとショートカットしているに過ぎない。すぐにかつては名前の付いていた、大きな通りだった道へと出る。たしか、カラなんとか通りと呼ばれていたはずだが、我々には地図の知識が無いから正確な名前まではわからない」
彼ら〈歩荷〉たちは自らの頭の中にある、それぞれの経験に基づいた地図だけを頼りにして、森をくまなく歩きまわっていると聞いたことがあった。道の痕跡が消えてしまわないように、踏み跡がなくならないように、〈歩荷〉は生まれてから死ぬまで歩くのを止めない宿命に生きる人たちだった。
眠らない男
「侵入者ですね」
モニタを確認して部下がつぶやいた。画面に映る赤い警告色やメッセージ表示とは裏腹に、部下にあわてた様子はない。
「森の住民ではないのか?」
食料を求めて森の住民たちの行動範囲が以前とは変わってきたのか、そのアラート自体は最近では頻繁に発生するようになっていたから、部下はもう慣れてしまっているのかもしれない。それにセンサーに反応したのが森の住民であれば、こちらで対処をする必要はなく、放っておけばよいフローになっていた。
「それだったらいつもどおりの報告でいいんですけどね。AIの判断はそうではないようで……」
「めずらしいな、そうか……」
今日は平穏な日ではなかったかと、赤く光る画面表示を見つめながら椅子に深く沈みこんだ。
「どうします? 森の住民の仕業ということにしておきます?」
「いや、AIがそう判断しているのなら仕方がない。AIが間違いを起こすようなことは無いだろうし、我々が考えることではない。エスカレーションを上げておこう」
「すいませんね、おねがいしますよ」
報告用の端末へ向かい、フォーマットに従って、エリアに侵入者があった筈の報告書の作成を始めた。
「侵入者はどのあたりにいる?」
古いキーボードを叩きながら背後の部下に尋ねた。
「橋を渡ったあたりみたいですね、南から向かってきてます」
「南の橋から?」
少し引っかかるところがあって、キーボードを打つ手を止めて考えてみる。過去の報告書を当たるまでもなく、すぐにある記憶が呼び起こされた。
「何年か前になるかもしれないが、ずいぶん前に同じようなルートで来たやつがいたな」
「そうでした?」
部下が大きなあくびをしながら、「まあ、どちらにせよ、我々からすれば余計な仕事が増えるだけですね」と、言った。
「橋のあたりだとすると、それほど遠くない。交代前に我々で対応しないとだめそうですね、どうも」
「ああ、そうかもしれない」
私は報告書の送信を終えて、後ろを振り向いた。
「手間になって申し訳ないが、今日はよろしく頼むよ」
「はいはい。勤務時間に関係なく働いている人に言われたら、俺もやらなきゃって気になりますよ、さすがに」
そう言って首をすくめる部下を見て、私は思わず苦笑した。
私は眠ることがない。不眠といったわけではなく遺伝で先天的に、眠る必要の無い体で生まれてきた。
この監視局では三交代のシフト制だったが、管理職だけは二十四時間の絶え間ない監視体制の引継ぎ問題を解決するために、必ず一人が通しで勤務し続けることになっていた。そして管理者になる条件として、この眠らない体質が必須となっていた。
そのおかげで私の家系は代々この職を得ているが、当然、二十四時間三百六十五日の勤務体制だったし、この眠らない体質の者はあまり長生きできないのだけれど、それでも能力を最大限に生かせる天職といってよかった。
この監視局ではとある遺跡の見張りを行っているが、遺跡外部の建物の保全に関しては他局の仕事になっていて、あくまで侵入者対策のみをおこなっている。そして、遺跡の安全のためであれば侵入者を排除するために、その命を奪ってもかまわないという強い権限があった。
建物内部の遺物に関してはできるだけ関与しないように決められていて、その内容については知らされていないから、実際のところ、そこまでして我々がいったい何を守っているのかまでは把握していなかった。ただ昔からそう決まっていて、決まった通りのことを、ただ忠実に遂行しているだけだった。
「どうですか、上からの返答はいつぐらいになりますかね」
侵入者があったにも関わらず、相変わらずのんびりとした様子で、部下はキッチンへと向かった。
「まあ、少し時間がかかるだろうね。いつものように」
我々の監視局内で発生したアラートのエスカレーション先として、上長ともいえる局が存在しているのだが、いったいどこで誰がその報告を受けているのかまでは知らされていなかった。我々はただ決められたとおりのプロセスを踏んで、侵入者があったという報告をいつも上げているだけだった。そして、その報告に対しての答えが返ってくるまでにはいつも時間を要した。
侵入者を監視するシステムは大規模なものが構築されていて、遺跡周辺の森には至る所に巧妙にセンサーが仕掛けられていて、そのセンサーに反応した対象の行動パターンをAIが判断し、瞬時に結果を出してくれるようになっていた。
しかし、昔からの習慣で人間の手を介さない運用が認められていないばかりに、我々のような監視者が判断、報告し、その結果を待つというプロセスを経なければ行動できない決まりになっていた。
そして、この仕組みは決して変更できない。システムの更新には途方も無いプロセスが必要だろうし、そもそもその変更をどこに対して提案すればいいのか情報はなく、見当がつかなかった。我々にそういった運用方法を変更する権限はそもそも与えられてはいない。
いつも新しい仕組みをつくる人間は評価されるが、その仕組みを保守・運用していくことなど誰も考慮していないし、必要とされるはずの仕事なのにも関わらず、適切な評価が下されることもない。だから、保守用の予算のことなどは考慮されておらず、備品を買う費用もほとんど無いに等しく現に監視局にあるパソコンは年代物で、壊れると代理品を探してくるのに手いっぱいになってしまう。
もし、代理品が手に入らなくなったとしたら……それはその時に、きっとどこかの誰かがうまくいく方法を考えてくれるだろう。
「それにしても、こいつは何を目的としてこの遺跡にやってくるんだ?」
監視モニタには、ゆっくりと遺跡に向かって北上してくる侵入者の動きが捕らえられている。
監視局が把握している道は遺跡のそばを東西に横切るものだけで、南側の森にはルートと呼べるようなものは存在していないはずだった。過去の報告書を見直したこともあったが、毎回この同じルートを辿ってきていて、侵入者がいつもどうやって森を越えてくるのか不思議で仕方なかった。
「さあ、それは我々にはわからないことで……」
監視ルームに戻ってきた部下の手には、新しく淹れてきたコーヒーがある。自席に座りコーヒーを一口すすってから、部下は後ろに手を組み、目を閉じた。
「ただ、そのよくわからない奴らのおかげで我々もこの職にありつけているのではないですか?」
爪のない鳥
川には上半分を平らに削った大木が渡してある。前方を行く〈歩荷〉がその木を渡りきってから、こちらを振り向き合図をした。恐る恐る木に足をかけると、眼下には灰色の濁流がある。激しく飛沫を散らしながら、時折、何かどろどろとした固形物が流れていくのが見える。足を滑らせて落ちてしまったら命は無いだろう。
川から発生した霧か、あるいはガスのせいか、周囲に白く靄がかかっていて数メートル先はもう見通せない。足元の木も飛沫と霧でふやけているように思えて、いつ折れてしまわないかと心配だった。
一歩ずつ慎重に歩いていると、どこかで何かが吠える声が大きく森に響き渡った。思わず驚いて足を止めてしまうと、橋の向こうで〈歩荷〉が急ぐようにジェスチャーで伝えてきた。覚悟を決め、足元にはなおも注意しながら用心深く渡り切ると、冷や汗で全身がびしょ濡れになった。
「〈森の住民〉が近くにいるようだ。急いだ方がいいかもしれない」
再び〈歩荷〉が歩き出したけれど、背負っている荷の重さのせいか、ゆったりとしたペースに変わりはなかった。
「〈森の住民〉の行動範囲が広がって、このあたりまで来るようになったのはごく最近のことだ。それからはあまり近づかないようにしている」
地図を確認することもなく、〈歩荷〉は地面を踏み締めながら、木々の間を歩いていく。
「しかし、お前が行こうとしている『森のブックオフ』のほうがもっと危険だ。そこに近づいた者は二度と帰ってくることはない。我々の仲間にも行方がわからなくなった者がいる。だから今はもうその建物に近づくようなことはしない」
森の存在を薄めるように白く立ち込める霧はさらに濃くなり、マスク前面のガラスに水滴が付き曇りはじめた。
「私が案内できるのはゲートと呼ばれる場所までだ。その先は、昔よりも地形が隆起していて複雑になっているかもしれない。地図くらいはもってきているのだろう? まあ、あまりあてにならないかもしれないが」
「この森で何が起きているんだ? こんな原始的な森が残っているのはもうここだけだ」
「この森は今も異常なスピードで広がりつづけている。何が原因なのかはわからない。ただ、西の方にかつてあったと言われている植物園が発生源だと聞いたことはある。この森に漂う有毒ガスや、この森自体も、だ。太陽も射さないのに、だからこそ少しでも明るいところを目指そうとしているのか木々はより高くより上方へと背を伸ばしていく。地中でも根が異様に発達を続けていて、土の中を縦横無尽に駆け回るその太すぎる根が地面を盛り上げ、あっという間に地形を変えてしまう」
少し黙ってから、〈歩荷〉は何かを思い出したように、
「以前、『森のブックオフ』へと案内したやつにも同じ質問をされたな」
「そいつは『森のブックオフ』にたどり着けたのか?」
「途中で別れてからはどうなったのか知らない。ゲートの先までは我々は立ち入らない」
前方には棘の生えたツタが増えてきた。〈歩荷〉は腰にぶら下げているナタを手にした。
「しかし、こうやって話をするのは、記憶と知識のいい整理になる。我々の仲間も少なくなってきて、話す機会も減ってしまった。こうやって誰かの頭に残ってくれるのはいい」
「前のやつに話したことは無駄になったかもしれないんじゃないか?」
「無駄になったとしてもやらないよりはいい。この道を歩くことだってそうだ」
〈歩荷〉は茨のようなトゲが生えた植物を注意深くナタで切り落として歩いていく。せり出した木の枝や草をナタで刈っていくから、後ろについていると、次々に道がひらけていくように見えた。
「地形は変わってしまったところもあるし、いくつかのルートは失われてしまった。それでも道は残す。道の跡はできるだけ昔のまま、我々がいる限りは可能な限り維持していく」
道を切り拓きながら、
「ここは少し時間がかかる。せっかくだから頭の整理に付き合ってくれ」
〈歩荷〉は森の様々な事柄について話してくれた。
晴れた日の後に突然現れる幻の川について、一本の木を取り囲むように生えるキノコの縄張り争いの話や〈森の住民〉の危険性と対処法について、汚染された池に棲む魚の変わった求愛行動と産卵方法、そして、変わった鳥について。
「その鳥のことを我々は〈ミチオシエ〉と呼んでいる。この森に生息しているが、滅多には出逢えない。一度だけ遭遇したことがあるが、〈ミチオシエ〉は対象の頭の中を読み、行きたいと考えている場所へといざなう様にあたりを飛び回る。その鳥は退化していて足の爪が失われている。爪がなく枝に掴まれなくて、食事の時も、交尾の時も、産卵の時も、眠る時も常に飛びつづけている。そして体が衰えて飛べなくなると、卵から孵ったとき以来の地面に触れて、そのまま死んでしまうらしい」
茨の道を抜けると、眼前には一際大きな幹をした巨木が現れた。翼を広げるように四方へ伸びた太い枝には黒ずんだ果実らしきものがぶら下がっている。その木をまわりこむように進むと、白く煙った曖昧な森の中に、再び明瞭な道が現れた。
「ここが目指していた道だ。この道をまっすぐ北に向かえば、ゲートと呼ばれる場所がある。ゲートをくぐればブックオフの領域に近づくが、言ったとおり、案内できるのはそのゲートの手前までだ。そこを超えた者はもう戻ってこない」
〈歩荷〉は薄暗い森の奥を指差し、こちらに向いて言った。指差す先には変わらず森が続いているけれど、その時、〈歩荷〉ではない誰かから見つめられているような不思議な感覚があった。ゆっくりと再び歩き出した〈歩荷〉を見て、気のせいだろうと、その後を追う。
〈歩荷〉が話していた通り、地形が隆起しているらしく、小さな上り下りを繰り返していると、急に右手が落ち込んだような地形があって、足元にごつごつとした岩肌が露出している歩きにくい箇所を過ぎると、目の前に突如、大きな緑の壁があらわれた。
かつてはなにか巨大な橋のような建造物だったのだろうか。行く手を遮る壁のように、いまや一面を木々の緑と蔦のような植物に覆いつくされてそびえ立っている、それこそがゲートと呼ばれるものだった。
その橋桁はほとんど崩れかけていて、左右にある大きな柱の間にもツタや植物が絡まっているけれど、道の部分だけは緑に覆われることもなく、森に取り込まれた門のようになっている。それはまるで、緑のトンネルのようだった。
「前にも同じように案内してこのゲートを超えていった奴とお前もそうだが、まるで死に向かっているようだ。何がお前らをそこまで駆り立てている?」
「わかってはもらえないとは思うが」
正面に見据えている緑のトンネルの先には、より深い緑の景色が続いている。
「これは、たった一度しかないチャンスなんだ」
「そうか……なら止めはしない。幸運を祈る」
「ありがとう」
「こうして歩いてくれたことで、知識の整理ができたし、二人分の踏み跡をつけられた。感謝している」
元来た道をゆっくりと、背の高い荷物が遠ざかっていく姿はすぐに霧に紛れて見えなくなった。振り返るとあとはゲートと自分しかいない。覚悟を決めて、ぽっかりと開いた植物のトンネルに足を踏み入れた。
森の住民
ゲートを超えると不思議と霧がなくなって、急に視界が晴れた。足元の様子はこれまでとは違って、踏み跡のほとんどない、荒れた道が続いている。おそらくは〈歩荷〉が歩いていないからだろう。
持ってきていた地図をバッグから取り出して確認してみる。〈歩荷〉が言っていた通りなら、地形は変わっているかもしれない。ただ、古い地図とはいえ今まで辿ってきていた道から進むべき方向を推測するくらいには使えるだろう。
バッグからコンパスを取り出してみたけれど、針はいつまでたっても北を指してくれず、ぐるぐると回り続けていた。ゲートをくぐったこのあたりは磁場がおかしいとでもいうのだろうか。
あとどれくらい歩けばいいのかはわからないけれど、とりあえず歩きはじめてみる。古地図によれば、この道はかつて「烏山通り」と呼ばれていたらしい。南北に走るこの道の先に『森のブックオフ』があるはずだけれど、地図だけでは距離がわからない。
周りの木々にはどれも同じように、根本にカサのひろがったキノコが生えていて、目印にしようとしても判別がつきにくい。ふと振り返ってみると、背後にあるはずのゲートはもう見えなくなっていた。まっすぐ歩いているつもりでも、森はこちらの方向感覚を失わせて取り込んでしまおうとしてくるらしく、気づいた時には足元にあったはずの道がなくなっていて、方向感覚をあっという間に失ってしまっていた。いったんは元来た方向にあるはずのゲートへと戻ろうとしてしばらくさまよった挙句、完全に迷ってしまった。
気持ちを落ち着けるために地図をもう一度確認していたところ、何者かの視線を感じて顔を上げた。そこには三体の異様な姿があった。
三人の〈森の住民〉はこちらに向かって、口々に言葉を発した。
「馬鹿な侵入者、いつも森の領域を侵犯して我らのテリトリーへ無断で侵入」
「笑止千万、この森に来て自分勝手な行動をするようなどうせ碌な人間では無い。死んでも救われない愚か者」
「我々の住処に平然とやってくる、悪質極まりない人間を絶対に許さない!」
その姿は全身が茶色い苔のようなものに覆われていて、肥太っているように見える。唯一、濁った白い目だけがどんよりとこちらをじっと見つめていて、表情はほとんど読み取れない。口調は怒りに満ちているようにも聞こえるけれど、細い声質をしていてあまり迫力を感じない。しかし、〈歩荷〉の忠告によれば、極めて危険な相手なことだけは確かだった。
「前にやって来たやつはなぶり殺してやったが、我らに対してひどい事実誤認をしていた。死ぬ前にお詫びしていたが、たとえ一度でも誤りを許すわけにはいかない! いい加減少しでも森のことを勉強したら?」
「自己責任は当然。おとなしく元の場所に居続ければいいのにただの害悪。何度も同じことの繰り返し。どうせ自分の目的しか考慮せずにこうやってのこのことやって来ている時点で何も考えていないんだよな」
「毎回森に踏み入ってくるのに何の知見も持たないのは現実の甘い認識。勉強不足以前の人間的欠陥、まともな教育もされてないのは火を見るより明らかだし、殺されても文句は言えない」
彼らのうち二人はナタのようなものを、もう一人は斧を担いでいる。その武器は錆びていて、血の汚れのようなものがこびりついていた。
「愚かな侵入者、森の勝手も知らずに入り込んでくるにも関わらず、いつも一方的にこちらを敵視してくる感覚がある」
「人間どもの話を聞くことすら時間の無駄、我らの間では見つけ次第殺してしまうのが共通認識。方針に従いさっさと済ませるべき」
一人がナタを構えて、じりっと間合いを詰めてくる。
「監視センサー、そういえばこのあたりにはあった認識だが、それはいいのか?」
少し声のしゃがれた一人があたりを見渡した。
「ああ、センサーならに確かに存在、そこの陰」
ナタで指し示した場所に〈森の住民〉たちの視線が向いた。木々の間に隠れるようにして、小さな筒状の機械がこちらに向いている。
「センサーがあったところでなんだってんだ? 見られて困ることがあるとでも」
「監視局、所詮やつらも同様な愚か者に過ぎない。我々にとっての問題にはならないし、今はこの人間を殺してしまう方が先」
「監視局の人間、そういえば以前にあいつらを殺したこともあるが、特に仕返しはなかった」
自分の存在をすっかり忘れ去ってしまったかのように、〈森の住民〉の三人は話しこんでいる。
「やつらの監視対象、それはあの建物だけ。我らをを恐れて今やこちらに手を出してくることも無くなったな」
「そうだ、前に殺した監視局の人間に白状させたが、建物さえ手を出さなけれは、それ以外の出来事に関しては全て想定外の事象として報告の義務は皆無とのこと。本当に必要なことはしない無為無策。恐ろしいほどの白痴っぷり」
「そうか、センサーを気にしないでいいんなら、こいつを殺しても無問題だな」
一人がこちらを急に振り返り、じろりと睨みつけてきた。無関心さを装い、その視線を見つめ返しながら、〈歩荷〉に言われたことを思い出す。
『いいか、たとえ〈森の住民〉と鉢合わせてしまったとしても、一切、相手をしないことだ。決して返事をしないように、会話しようとするな。気分だけで行動しがちな奴らだが、放っておけばその興味は次々に他のものへと移っていって、お前と出会ったことなどすぐに忘れてしまうはずだ』ナタの刃をこちらに向けて威嚇するように、〈森の住民〉は苛立ちながら、
「おい、侵犯したのはそちらなのになぜ無言なのか。言行不一致は許されない!」
「不審な態度に違和感、命を粗末にしようとしているのに何が必要か無理解。命乞いをするとか、考えはないのか。いま動かなければ悲惨な事に」
「森を犯すのならば、最後までその姿勢を貫け。恥という概念はないのか」
〈森の住民〉たちは少しずつ間合いを詰めてきて、いつ襲いかかってきてもおかしくない距離にまで近寄ってきた。
「逃走を狙っているのか? 勿論そんな事ができる訳はない。それに我らにとっては常識も情弱は知らず、どうせこのまま森にいても死んでしまう。情けない人間」
「お前が生きていける環境ではないのが事実、信じがたい愚かな侵入者」
「そうだ、この前の奴みたいにしてみるか? 曖昧答弁に終始していた為、手足を潰してみたが泣き叫んで愉快だった。どうだ?」
高鳴る心臓の鼓動を悟られないように、自分は冷静さを装い、なおも問いかけには答えないようにする。背後には一人の〈森の住民〉が回り込んできている気配がしていた。退路はもうなさそうだった。それにもし運良くこの包囲を抜けられたところで、森を知り尽くした相手に逃げきれるとはおもえない。
何か手がないか周囲を伺うと、木々の間を素早く動く、小さな影が目に入った。
「侵入者、こんな時に何を見ている」
「自身の命の緊急事態であることすら理解できていなかったとすれば驚愕」
周りを取り囲む〈森の住民〉たちの気が逸れた。〈森の住民〉たちの視線の先には、小鳥のような生き物がぱたぱたと、大木の幹の周りを忙しそうに飛び回っている。
「珍しい鳥。このあたりではあまり見かけない認識だが」
「おそらくは気狂い鳥、昔はどこの森にも多く存在していた」
横目でちらりと見ると、背後に回り込んでいた〈森の住民〉も、小さな鳥の姿を一生懸命、目で追っている。
「否、まるで違う」斧をもった〈森の住民〉は、その濁った目を細めた。「ごく平凡、ただそこら辺で見かける鳥に相違ない」
「いや、その主張は認められない」
意見の割れた〈森の住民〉はこちらをそっちのけで、小さな鳥の姿を探しはじめた。
「素早い鳥、その行方に注目したい」
正面にいた〈森の住民〉の一人は斧を抱えたまま、その体からは想像もできないほどの俊敏さで鳥を追いかけ、木々の奥へと駆けていった。
「珍しい鳥など、この際どうでも良いのではないか?」
「いや、珍しいものであれば歓喜。皆に持ち帰る話の種になることは確定」
くるくるとナタを回しながら、〈森の住民〉は考え込むようにして
「しかしその気狂い鳥であったと仮定するならば、以前、川の向こう側で巣を発見、たくさんその鳥が舞っている場所を偶然みつけたことがある」と、言った。
「そんなまさか?」
森の奥から〈森の住民〉が「見失った、無念」と戻ってきた。
「それよりも鳥の巣、見つけた場所まで案内する思いはあるが、どうか」
「本当に? それは喜びしかない」
「皆にその景色をお披露目できるのであれば」
「本当であれば頭が下がる。すぐに向かうのが吉だろう」
三人の〈森の住民〉たちは近くの木に#のような印とおそらくは〈森の住民〉たちが使う文字で何かを刻みつけてから、急いだ様子で何処かへと走り去って、姿はすぐに見えなくなった。
命が助かった安堵感から足の力が抜けてしまったらしく、立っていられなくなった。木にもたれかかるようにして、気を落ち着けるために深呼吸していると、木々の間を縫って、ぴょんぴょん飛び跳ねるようにして小さな鳥が目の前にやってきた。その鳥はホバリングして空中にとどまったまま、不思議なものを見るかのようにこちらを観察している。
短いノイズのような小さな鳴き声を発して、木々の向こうへとその鳥は飛んでいった。しかし、すこし離れたところで追いつくのを待っているかのように、こちらをみつめてまた短く鳴いた。
なんとか立ち上がり、すがる思いで鳥に向かって歩いていくと、距離を保ったまま、鳥はまたすぐに前方へと飛んでいく。それでも飛び去ってしまうわけではなく、一定の距離をとって、近づいて離れてを繰り返していると、なんだか小鳥に道案内をされているような気分になってきた。
その鳥はそれほど大きくもないし、距離があるからその姿の詳細まで確認することはできないけれど、胴体についている爪楊枝のような足は妙につるっとしていて、爪がないようにも見えた。
手順通りに
道にせり出した枝が窓ガラスをなでていく。舗装された道路の残りがかろうじて道であることの証明にはなっているけれど、ここを車で走る人間は我々しかいないからほとんど森に取り込まれてしまっている。
報告に対する上からの返答がいつもより遅かったせいもあって、昼の時間はもう終わろうとしていた。あたりは薄暗くなりはじめていて、車に乗っていたとしても、夜の森にはあまり立ち入りたいものではなかった。
早めに点灯したライトが、暗い木々の連なりと至る所がひび割れた道路を単調に照らしていく。
「この道はいつ運転しても眠くなってきますね」
「そうか。私にはその眠る感覚がわからないからな」
長い年月をかけて、多様に進化してきた動物たちが唯一、睡眠だけは捨て去ることができなかった。自然界で生きていくためには、自らを危険に晒す睡眠時間などというものは、当然ないほうがいいに決まっている。それでも、進化の過程で眠るという行為を捨て去ることができた種はいなかった。
だから私たち眠らない人間はおそらくは進化などではなく、ただ異常なだけだろう。親から子へと遺伝はする。しかし、それはただのバグに近いように思えた。
「うらやましいよ、前にも話を聞かせてもらったが、その眠りに落ちる際の意識を失う感覚や、目覚めた時のさわやかな気分は私には知り得ないことだからね」
部下が休憩で昼寝をした後などに見せる、すっきりとした表情を思い出してみる。
「それに、夢というものはその人の記憶の中から生まれているものなのだろう? 自分の記憶や知識から無意識に生成される夢というものを一度でいいから見てみたいものだ」
「そんなたいしたもんじゃないですよ」
「そうかな? 私がいくら望んでも手に入らない物だからね。それに、睡眠中に見聞きしたように思う現象と、将来叶えたい願いに同じ言葉を使っているだろう? なにか共通するものがあるんじゃないのかな」
「どうでしょうね。少なくとも、俺にはその将来の展望のほうの夢はないですね」
部下はあくびをしそうになって、片手をハンドルから外した。車が左右に揺れる。
ヘッドライトが道の上方にある、木々に覆われた看板を照らした。そこにはほとんど文字が掠れてしまっているが、植物園の文字がかろうじて読み取れる。
かつて西の方角には植物園があったという。ある時、園内で起きた異変により非常に繁殖力の強い植物が発生し、それがあっという間に増殖して森ができたといわれている。その拡大の勢いはかつてよりは弱まったものの依然として続いていて、森は今も広がりつづけている。
このあたりの木々や植物は元々、植物園では毒草として育てられていたものらしく、森の中ではマスクをしていないと呼吸すらできない。とはいえ、森ができる前は高レベルの大気汚染による酸性雨が降り続いていたから、どちらにせよ、生身の人間が活動できる状態ではないことに変わりはない。
その時、部下がブレーキを踏み、車がきしみながら止まった。
「倒木ですね……これ以上は進めない」
道路を横切っている大木が、車のライトに照らされていた。
「しかたがない、降りて歩こう」
「そうですね」と、部下が首をすくめた。
監視局としては侵入者の確認をせずに放置しておくという運用はない。酸素マスクを装着しなおして車を降り、ライトで照らして倒木を確認すると、根元付近が腐食して折れているのが原因のようだった。いくら森とはいえ酸性雨の影響がないわけではないようだ。
この倒木は道路管理局に連絡して処理してもらわなければいけない。その手順についてはどこかにマニュアルがあったはずだが、少し資料を探さなくてはいけないかもしれない。たしか別の道路でも同じような倒木の処理の依頼をしておいたような記憶があるが、その件についてはどうなったのだろうか。作業完了したという報告は受けてはいない気がする。
「このあたりからだと、二十分くらいは歩くことになりそうですね」
懐中電灯で周囲を照らしながら歩く部下の声が後ろから飛んできた。遺跡まではまだわりと距離がある。普段そんなに歩くことはしない私は少し疲れてしまうかもしれなかった。部下のように、普通に眠ることのできる人間は睡眠により体力を回復しているような節があるが、眠らない体質の私の場合にはそれがなく、普段行わない運動をすると、数日は体力が落ちたままになって元に戻るまで時間がかかってしまう。
しかし、父から遺伝したこの体質は他でもない、私の父との数少ない繋がりともいえるものだった。
誰もがコストのことしか考えなくなり、出産、子育て、教育などすべてを何かの対価としてしか考えなくなった時代では、誰もすすんで子供を作ろうとはしなくなったし、人口の調整もされているから、人工授精と人工子宮での出産しか認められてはいない。
生まれてからずっと公的機関で育てられ教育されることにより、実の両親に会うことは一度もなくなったから、父とはいっても遺伝子レベルでいうところの片方の人というだけかもしれない。しかし、それでもそれは私の半分をなしている重要なものだった。
いよいよあたりは暗くなり、懐中電灯の明かりだけで歩くには心細くなってきた。部下は用心のため周囲を照していたが、木から木へと飛び回っていたライトの光がぴたりと一本の木で止まった。そこには十字模様が二重になったように木の幹が傷つけられている。
「この森の住民の印はまだ新しいですね……」
以前、他局が森での作業中に森の住民の襲撃を受け、死者を出したと聞いたことはある。しかしそのとき以来、この遺跡付近に現れたという話は聞いていない。ただ、森の住民の行動基準はよくわからないし、活動範囲がまたこちらに移ってきていたとしても不思議ではない。
「まあ、やってきたら追い返してやりますよ」
部下は自信ありげだったが、我々には武器があるとはいえ、あちらがどういう手を使ってくるかはわからない。
「急ごう」
とにかくいまは我々の任務を遂行することが最優先だった。
我々が監視している遺跡内部にはずっと棚が並んでいて、古びたその棚にはデジタルデータ化されてすっかり用無しになってしまった古い本と、CDと呼ばれる古い規格のメディアとが整理されて収まっている。CDには音楽と呼ばれる物のデータが入れられているとの話だったが、ネットワークを介して全てのデータをやりとりする今では、もうそんな化石時代のような旧式のメディアを使うことはなくなってしまった。
かつては森の外側にも、同様な施設が数多くあったという話だが、大気汚染による強い酸性雨のせいで、そういった古くて対策のなされていない建物は軒並みやられてしまった。結果的に森に守られる形となった遺跡はダメージが少なく、おかげで中に保存されていたものもまた無事な状態で残ることになった。
そもそも、監視局はこの遺跡に侵入しようとする者がいないかどうか監視するためにできたものだ。しかし、その建物を遺跡として定めて特別に保護するように決めたのはどこの誰なのかは知らされてはいない。
そして、監視、保全することまでは決められてはいたが、遺跡内にある本だったりCDだったりといったものを保存したり、内容の調査をしたり、ラベリングして管理していくなどという話はまったくなかった。まるで誰もその中身には興味を持っていないようだった。
いや、侵入者を除いては、だ。侵入者たちだけは明確に遺跡の中のCDを目的としてやってくる。いったい何のためにだろう? その目的は私には理解できなかった。
静かな店
爪のない鳥が短い鳴き声を残して飛び去ると、目の前には建物が現れた。外観は色褪せてくすんでしまっているし、ところどころに崩れそうな箇所もあるけれど、森に取り込まれてしまうこともなく、無事に残っている。これこそが目指していた『森のブックオフ』に違いなかった。
地図によれば、たどり着いた場所は建物の南側で、裏手にあたる。大きな引き戸のようなものが正面に見えて、その上には大気が入り込まないように塞がれた窓の跡らしきものがあった。古い地図には周囲にも住居などの家屋があったように記されているけれど、それらはもう森と一体化してしまっているのか見当たらず、『森のブックオフ』だけが建物としての体裁を成していた。どこかの機関が遺跡として保護をしているという噂があるから、そのおかげなのかもしれない。
はるか昔には至る所にあったブックオフも、扱っているCDのプラケースがアンチエコだというエコテロリストの難癖により多数が破壊されたし、その後の異変による大気汚染でほとんどが壊滅的な打撃を受けたけれど、唯一この『森のブックオフ』だけは大きな被害を免れていた。この『森のブックオフ』はかつてブックオフ北烏山店と呼ばれていたらしく、図鑑では正面入り口の屋根が丸いのが特徴的と書かれていた。
図鑑というのは、ありとあらゆるブックオフをまわってはゴミのような何の役にも立たないCDを収集していた狂人が、大地震によるCD棚の崩落で安CDに押しつぶされ絶命する前に編んでいた唯一の自費出版本『全国ブックオフ図鑑』のことだ。
その本には当時最盛期だったブックオフ各店舗の緻密な情報とその特徴が網羅されていて、当局に目を付けられて焚書になったものの、愛好家の手によってそこから逃れた小部数が裏で繰り返しコピーされて現在まで引き継がれていた。
自分も隠れて読み込んでいたそのコピー本の情報がなければ、このブックオフについて知ることはなかった。図鑑で何度も目にしていた、北烏山店の特徴的な外観を正面から一度見てみたい気持ちはあったけれど、表のほうには何らかのセンサーが仕掛けられているかもしれないし、あくまで目的を果たすことを最優先しなければいけない。
裏手から建物の右手にまわりこんでいくと小さな扉があった。かつて従業員用の非常口などとして使われていたのだろうか、その扉のノブは腐食してしまったのか、すでに失われている。力を入れてみると扉は意外と軽く、少し持ち上がった。そのままずらして身体を滑り込ませてから、扉を元に戻して急いで外気を遮断した。
ライトをつけてみると、明かりの中に小部屋が浮かび上がった。働いていた人の控え室らしく、ロッカーとテーブルが散乱したままになっている。歩くと長い時間を掛けて積もった埃が舞い上がり、すぐに視界が悪くなった。埃を立たせないよう、ゆっくりと椅子をよながら正面の扉を開けると、目の前にはいきなり背の高い棚が現れた。そこはもう聖域ともいえる、ブックオフの店内だった。
正面の棚には本が詰まっているようだったが、その内容はほとんどがぼろぼろになっていて原型をとどめているものは少なかった。長い時を経たことによるものか、それとも保護されている建物とはいえ、外気の影響による劣化が起きてしまっているのかもしれない。
そのまま左へと棚をまわりこんでいく。一番、奥の壁に沿って進んでいくと、棚の内容が紙からプラケースへとかわった。それは念願の、CDが所蔵されている棚に違いなかった。
かつて音楽は、現在の基準からすれば考えられないことだけれど、44・1キロヘルツ/16ビットなどという信じられないほどの低解像度で聴かれていたらしい。一ギガバイトにも満たない低容量のデータがCDに収められて売られていたという話だけれど、その頃の音楽というものはほとんど失われてしまい、現在も聴ける音源はというと環境音しかない。
以前はどこでも普通に耳にした、自然界の波の音、川のせせらぎ、虫の鳴き声、風の音、絶滅してしまったイルカや様々な動物の鳴き声などが貴重な過去の遺産として、CDに入れられ売られていたデータとは比べものにならないほどのレゾリューションで流通しているけれど、教育や思想の制限のため不要なものはすべて禁じられた現在では、昔は普通に聴かれていた音楽というものを耳にする機会はまったく無くなってしまった。
噂によると、かつてのCDの時代には、そういった貴重な自然音に電子音をかぶせたよくわからない音楽もあったらしいし、歌の入った曲で溢れかえっていたという話だった。『全国ブックオフ図鑑』を編んだ狂人が蒐集していたものも歌の入った曲だったし、様々なジャンルのものがあったという話だから、人工的に失われた音楽や歌というものを聴いてみるのが夢だった。
そして今、まさにその夢が詰まった棚に囲まれている。
たどり着いた棚にはぎっしりと隙間なく、天井付近までプラケースが収まっている。その中の一つを試しに手に取ってみたけれど、触れたところからすぐに崩れてしまった。苦労して抜き出してみても、中のCDはひび割れていてとても正常な状態ではない。どうやら思ったよりも劣化が進んでいるようだった。
ならんでいるCD棚を順番に見ていっても、どれも似たような感じで、中には粉々になるまでケースが劣化している箇所もあった。もしかすると、まともな形で残っているCDはもう無いのかもしれないと気落ちしそうになったけれど、ある棚の下部がすこしだけ開いていることに気がついた。手をかけてみると、どうも棚の最下段には収納スペースがあるらしかった。
棚を壊してしまわないよう、注意深く引き出してみると中にはCDがぎっしり詰まっていた。棚に出さない予備がこうして置いてあるのだろうか、その引き出しのCDは棚に置かれたものとは比べものにならないほど状態がよく、タイトルらしきものが書かれた「帯」と呼ばれていたものがついていたり、黒地に黄色とピンク色で書かれた文字が判別できるものがあったりした。
その中の一枚を選び、壊してしまわないように注意深く抜き出してみる。ケースは崩れることもなく形を保っていて、蓋を開けてみると、中のCDは鈍く輝いていた。
バッグにはCDを聴けるように、苦労して手に入れたポータブルCDプレーヤーが入っている。CDが手に入らないから、動作するかどうかは賭けでしかないし、またCDがどういった動作をするのか知識としては持っているけれど、実際に試してみるまではうまくいくかどうかわからなかった。
しかし、いよいよだった。ついに念願の目的を果たす時がやってきた。
ただ、音楽を聴くという夢を叶える前に、ここまで慣れない森を歩いてきたことでさすがに疲れてしまったから、すこし休んで心を落ち着けてからにしようと考えた。埃をなるべく立てないようにゆっくりと座り込んで、初めて手にしたCDというものをライトで照らして観察してみた。表面には印刷がしてあって細かい文字がある。裏返してみると盤面が明かりを反射して、散乱した光がくすんだ店内を虹色に飛び回った。
明るいか暗いか
すっかり日は暮れて、あたりには懐中電灯以外の光はなかった。二本のライトが照らす先には、森の中の景色としては不釣合いな建物があらわれた。
遺跡の正面側の入り口にはごく最近になって取り付けられた防護シャッターがある。施錠を解除しシャッターを開けると、外部の大気が中に影響しないよう新たに取り換えられた、耐酸性で密閉できるガラス扉がある。その先には薄暗い遺跡の内部が見えた。
扉を開けて注意深く内部に足を踏み入れると、黒くダマになった埃が靴に絡みついてきた。遮蔽されているはずが、入り口付近はすこし湿っているらしい。どこからか外気が入っているのだろうか。遺跡の保全はどうなっているのだろう。
大気が入り込まないように素早く扉を閉めて、武器とライトを構えてから、
「私は右手からまわる。左のほうを頼む」小声で部下に囁いた。
「はいはい」部下は用心深く歩を進めていく。
カウンターと呼ばれる場所を過ぎ、背の高い棚に挟まれた通路を照らしながら、侵入者がいないかを確認していく。センサーによれば侵入者は遺跡内にまで入ってしまったようだから、注意する必要があった。
右側の壁に突き当たり、そこからは壁沿いに奥へと進んでいく。室内には部下の足音が小さく聞こえるだけだった。侵入者はどこかに隠れて息をひそめている可能性があり、緊張感が高まった。
左右にそびえる棚の間を順番に、慎重に進んでいくと、ライトが床にある何かを照らした。丸く平べったい機械のようなものがあって、そこからはコードが延びている。ライトでコードを追っていくと、その先には人間が倒れていた。侵入者らしき男は、CDというものが収まっている棚の間で事切れていた。
そして、ライトで照らされたその姿は信じられないことに、フルマスクを外していた。いくら遺跡内が外界から遮蔽された空間だとはいえ、外気の有毒なガスから身を守り酸素の供給を行うためのマスク無しでは、そう長いあいだ生きていられるとは思えない。
侵入者は倒れてから少し時間が経っているらしく、外気にさらされた顔には床から舞い上がった埃が降りかかっている。そして涙を流したのだろうか、目から頬にかけて濡れたあとがあった。
耳にはイヤホンと呼ばれていた、かつて音楽を聴くために用いられていた小さな装置が差し込まれている。コードでつながった機械の中ではCDらしきものが回転を続けていて、耳をすましてみるとかすかに、イヤホンから音楽と呼ばれていたものが漏れ聴こえていた。
「……したから、……ど……かない……めてな……た……」
ボイストゥスカルの技術を用いて、外耳を介さない頭骨伝導音声技術が一般的になってから長い年月を経て、人間の耳はすっかり退化してしまった。常に装着しているフルマスクを通じて、外部の音は直接、耳を通さず脳内に響くようになり、空気の振動が鼓膜を震わせることによって音を感じることはもう無くなった。
その退化した耳で、かつて行われていた方法で音楽を聴こうとして、この侵入者は最後に命がけでわざわざこの遺跡までやってきたというのだろうか。いったい何のために……。
かすかに音の聞こえるプレーヤーを目にして、ふと音楽を聴いてみたいという衝動に襲われた。それは人生で初めての経験だった。
膝をつき、その男の耳に差し込まれた小さな装置に、静かに手を触れようとすると、
「動かないでください!」
部下が武器をこちらに向け、強い口調で叫んだ。
「内密にとは言われているんですがね」
部下は銃を構えたまま、視線をそらさずにこちらへと近づいてくる。
「あなたは父のこともあって、上から監視しておくようにとの命令が下ってます。さあ、立ち上がって。それには触れないでください」
「……わかった」
部下を見据えたまま立ち上がり、後ずさりして距離を置いた。
「我々の使命は侵入者の排除であって、遺体の処理や遺跡内部の物の扱いについてはまた別の部署の仕事です。こういった命令違反は犯さないでいただきたい」
詳しく教えられることはなかったが、いくつかの書類や機密情報にアクセスして知り得たことは、私の父はかつてこの遺跡で、目の前に横たわる愚かな侵入者と同じように、マスクを外し、CDを再生し音楽を聴いている状態で死んでいるのが発見されたということだった。これは自殺に等しい行為だし、もちろん命令違反なので、内密に処理がされて表沙汰にはならなかったらしい。
どんなに手を尽くして構築されたシステムにもエラーは発生する。生きていく上で不必要なことをする余裕もなく、またそういった思考にたどり着かないよう巧妙に敷かれたレールの上を生きていくだけの社会では、無駄な行為そのものがシステム上のエラーと見なされる。
プログラムで発生したエラーは潰されて、以後は起こらないよう修正されるが、それでもなにかのきっかけにまた別のバグやエラーが発生しつづける。システムとはそういうものだ。
しかし、我々の人生はたった一度のエラーでもシステムからは排除されてしまう。
「すまない……疲れているのか、どうかしていたようだ」
「もうすっかり夜ですよ、ひとまずは戻りましょう」
部下は侵入者を一瞥して、足元のコードを蹴り飛ばした。イヤホンがプレーヤーから抜けて、音楽は聴こえなくなったが、小さくしゅるしゅるという音がしている。プレーヤーの中で何かが駆動している音なのだろうか。
おかしなことをしないか見張るように、部下は距離を保ったまま後ろを付いてくる。ガラス扉を開けて外に出ると、風が木々を揺らし、枝や葉のこすれる音が聴こえてきた。そういえば今まで生きてきて、森の音というものを意識してこなかったことに初めて気がついた。
部下は入り口のシャッターの施錠をしてくれているようだが、すこし手間取っているようだった。先にひとりで元の道を歩きだしたが、ふと思いついてライトの電源をオフにしてみると、さっきまでの光の残像がマスク越しに残っていたがそれもすぐに消え、あとは暗闇だけがあった。不思議と恐怖はなく、森に包み込まれているようで心細くはなかった。
再生
床に座り込むと、ようやくたどり着いたという安堵感があった。さすがに疲れていて、眼を強く閉じていると頭の中心からやや後ろのあたりに強張りを感じる。ずっと動かないでいるとその塊が徐々に重くなり、眠ってしまいそうだった。
室内には何の音もしない。静寂の中、古の時代の産物であるCDに見下ろされていると、なんだか神聖な場所にいるような気持ちになってくる。
それに、もう誰にも邪魔されることはない。あとはやることをやるだけだった。
重い腰を上げて立ち上がり、CD棚から適当に一枚プラケースを抜き出してみると、表面は変色してしまったらしく、すっかり茶色くなっていた。外から見ただけだと中身が何のCDなのか、まったく判別がつかない。劣化して爪が脆くなっていたようで、ケースを開こうとすると蓋側が外れて床に落ち、砕けてしまった。中に入っていた紙もぼろぼろと足元に散らばった。
手にはもう一方、反対側のトレイ部分だけが残っていた。震える指先でディスクを持ち、ひっくり返してみると、劣化した茶色いケースや埃にまみれた灰色の棚とは対照的に、裏面の蒸着層がきらきらと七色に輝いた。
バッグからポータブルプレーヤーを取り出す。本体の横にあるスイッチをスライドさせると、小さなモノクロ液晶にライトが点り、「no dISC」というデジタル表記と、円になった矢印など、いくつかのアイコンが表示された。プレーヤーの電源を入れるまでの動作は確認済みだったけれど問題はここからで、肝心のCDが手に入らなかったから、実際にちゃんとCDが再生できるのかどうかは試してみるしかなかった。
プレーヤーの蓋を開け、説明書で読んでいた通りにCDをセットしてみると、かちっと音がして真ん中の穴でロックされたようだった。蓋を閉めると中のCDが回転を始める。スピンアップするキュルキュルという音と共に液晶の表示が「1」に変化し、そのままディスクは何かを待ちかまえているかのように、回転を止めた。
どうやらこれで準備は整ったらしい。
CDプレーヤーを床にそっと置き、両手を使っていよいよマスクの接続を解除しにかかる。首元のスイッチに手を触れると、センサーが大気状況を判断し、脳内に直接アラームを響かせた。
「危険です、外気の汚染レベルを確認してください」
「危険です、外気の汚染レベルを確認してください」
最後に大きく深呼吸をしてから、頭をすっぽりと覆うマスクを外した。冷ややかな空気が頬をなでる。生まれて初めて触れた大気にはそれほど恐怖は感じなかった。それでも、息をしてみようという気にはならない。ただ、そう長く息は続かないだろうし、そのときに空気を吸ってみてどうなるかわかるだけだ。
それよりも、このすっかり退化してしまった耳で、はたして音楽を聴くという行為ができるのか、44・1キロヘルツ/16ビットで再生された空気の振動を鼓膜で感じ取られるのかどうか、それこそが試してみなければわからないことだった。
プレーヤーに接続されている、イヤホンと呼ばれる小さなプラスティック製の装置を両耳に挿しこんでみる。装着した状態だと、耳に少しだけ痛みを感じた。これは昔の人間用に作られたものだから、退化によって耳の穴が小さくなってしまった我々にはサイズが合わなくなっているのかもしれない。
いったん床に置いてあったCDプレーヤーを注意深く両手で持ち上げて、耳だと思われるあたりに意識を集中させた。室内には動くものなどなく、物音は一切聞こえない。操作パネルの右向きになった三角形マークのボタンを押し、プレーヤーの内部でCDが静かに回転を始めたのを確認してから、目を閉じた。
二〇二一年一月一日〜一月一五日