豊島園日記 1

そ の 一

早宮はやみやの方では家の外に置いてある植木やごみ箱だとかを燃やされる不審火が続いているという話があっても、当初は遠いところの出来事だったのに、小火ぼやが四丁目、三丁目とだんだん南下してきて他人事ではなくなってきた。

そんな折、練馬春日町からの買い物帰りで火事の後に出くわした。交差点近くの団地向かいにある小さなその一軒家はもう鎮火されていたけれど、前に消防車が二台停まっていてなにやら現場検証をしている。

その様子を眺めていると、なんとか隣には燃え移らずにすんだ、と近所の人が話合っているのが聞こえてきた。たしかここは昔ながらの床屋さんだったはずで、ガラスの無くなった窓からは真っ黒に焼け焦げた室内が窺えた。

「あたしも人聞きだけどね、亡くなったらしいわよ」

「まあほんと、お気の毒にね」

早宮の件とは関係ないと考えたかったけれど、いよいよ物騒になってきたなと、買い物袋を抱えて家路を急いだ。

次の日は朝が早く、さっさと準備して布団に入ったのに隣の駐車場でずっとアイドリングしている奴がいて、それに共鳴した建物がごろごろと震えて、とても寝ていられない。しばらくは我慢してみても無駄だったから、さすがに文句のひとつくらいは言ってやろうと意を決して外に出たけれど、駐車場の敷地に入ろうとしたあたりでその車は急発進して、猛スピードで走り去っていってしまった。

怒りの持って行き場がなくなり、なんだか拍子抜けしてしまい、すっかり眠気も覚めたこともあって、もう寝るのはあきらめて夜の散歩に出かけることにした。

昼間はからっと乾燥した散歩日和だったのに、日が暮れてから雲が出てきたらしく、しくしくとした湿気のあるなんとも気分の良くない夜で、あてもなくうろついてみたところでどうもおもしろくない。

老人ホームに突き当たって左へ曲がると、前方から肩を組んだ酔っ払いの男二人がふらふらと歩いてきた。住宅街の中なのに大声で話しているけれど、呂律が回っていなくて何を言っているのかほとんどわからない。ただ、すれ違う時に「やっぱり木村さんは違うわ、まだまだ衰えてないね」というようなことを話しているのだけはかろうじて聞き取れた。まだ衰えていない、というのはお前の全盛期は過ぎたと示唆しているようなものなのに、言った方も言われた本人も気づいていなくて、いっそう気分がくさくさしてきた。

どんよりとした空模様のように足取りも重く、運動公園の方へぼんやり歩いていると、消防車のサイレン音がどこかから小さく聞こえてきて、すぐに遠ざかっていった。

東中央橋の先の歩道はしばらく前に立ち入れなくなっていたけれど、相変わらず閉鎖されたままで、補修工事のはずがなかなか終わらないなとおもっていたら、川のそばになにか土台を作りはじめていることに気がついた。近くのフェンスに貼ってあった工事概要を見ると、文化センターの裏から来ている道路をそのまま北の方へ延伸する計画で、新しく橋を架ける工事をしているらしかった。

石神井川の左岸にある雑草が生い茂ったまま長いこと放置されている空き地は、その道路のための用地だったようで、現在の車道はそのまま歩道に作り替えられるとイラスト付きで説明があった。この先の左手にも工事予定区間があって、ゆくゆくは環八と環七とをつなぐ計画がある。事業概要によればこの辺りの電線は地中化されるようだし、車の流れも街並みもまた変わっていくようだった。

道路を渡って、向かいにあるいちょう公園でトイレをすませてから、練馬駅方面に向けて坂道をのぼっていく。通りには白い花を咲かせたモクレンの木がならんでいて、前方には何層も重なった雲ではっきりとしない夜空が広がっている。

空を見上げたまま歩いていたから足元が不注意になっていて、ぐにゅっとした何かを踏みつけてしまった。地面は暗く、目を凝らしてみても正体がわからない。スマホのライトを向けてみると、歩道には茶色くて大きな虫のようなものが至る所に転がっている。その中にはモクレンの真っ白い花も混じっていて、ライトの光で照らされると黒々とした地面に浮かび上がっているように見えた。

茶色い物体はおそらく虫ではなく、咲き切らなかったモクレンが蕾のまま落ちて腐ってしまったものなのだろう。そこら中に転がっている未開の花のひとつを試しに踏んづけてみると、やわらかな外皮が耐えきれずに裂けて、内臓が弾け、体液を散らしながら潰れる感覚が靴底に伝わってきた。

そ の 二

駅前のコーヒー屋は平日だと七時に、休日と祝日は八時に開く。放っておくと家から出ない生活が続いていたこともあったから、朝起きたらどんなに眠くても出掛ける支度をして駅前に向かい、コーヒー屋の開店直後に一番大きなサイズのホットコーヒーを買って、二階の窓際にあるカウンター席の一番奥に座り、駅前を行き交う人たちを眺めながら作業するのを習慣づけることにした。

まだ肌寒い朝にそそくさと日課のように出かけては、コーヒーを飲みながら国会図書館で調べておいたコプト教の古い暦についてまとめたり、どこかの汽水域でぼらが異常発生していないかとエゴサーチしたりして、それに飽きたら江古田の古本屋で買っておいたフーケの『ウンディーネ』やゴーギャンの『ノア・ノア』を読んだりする。

集中力はだいたい二時間ほどしか続かない。それはおそらく自分の限界で、もし二時間を超えて居座ることがあればコーヒーのお代わりをしようと決めていたけれど、結局そうなることは一度もなかった。

有線から適当なボサノヴァが流れてくる店内で本を開き、窓ガラスの向こうに広がる現代の風景をよそに、ゴーギャンが十九世紀のヨーロッパ人におなじみの傲慢さでもって振る舞っている様子を読み進めていく。

ゴーギャンはタヒチで妻にした十代の少女をあっさり捨てて故郷のフランスに帰ったのに、すぐにあれこれと行き詰ってわずか二年後に失望したはずの南太平洋の島にまた舞い戻ることになる。『ノア・ノア』はその一度目のタヒチにおける行動や思想を自ら書いたものなのだけれど、記録の特にひどいところには、前の所有者が鉛筆で引いた線が残っていた。

そんな中、一箇所だけ筆圧のない文字で薄く、「タヒチに救われなかった」と書かれていたから、バッグからペンを取り出し「ウンディーネだったら死んでいた」と加筆しておく。読み終わったらまた元の古本屋に売り払いに行って、次の所有者がページを開いてくれるのを待とうと考えた。

ひとつ楽しみができたことに満足して、一息入れるために窓の外の風景をぼんやり眺めながらタヒチのことを考えていると、向かいのマンション三階の廊下にひとりの男が立っているのが目に入った。

その建物は駅の改札を出てすぐ左手にある。駅前を歩いていても、視線は飲食店やコンビニの方に向くし、そのマンションは自宅とは反対方向にあるから死角になっていて、もう何年も住んでいるのに三階部分が住宅になっていることにはいままで気づいていなかった。

男がそのマンションの住人なのかどうか定かではない。男はしわになったスーツを着た冴えない風体で、外に向かってなにやら手をかざしている。

その昔、虎ノ門の喫茶店で働いていた時、常連客に手をかざす宗派の人がいたけれど、その向かいのマンションの男も同じなのだろうか。男は目を閉じたまま熱心に手をかざしているけれど、下を行き交う人たちに送られているのが波動なのか、それとも呪いなのかはわからない。

頭上で行われているその儀式に気づく様子もなく、駅へと急ぐ人たちはかざされた手の下を通り過ぎていく。あまりじっと見つめていると視線に気づかれて、男の手がこちらに向くのも嫌だったから、なんとなく視野の隅で男を意識しながら、また本を開きタヒチでの出来事に戻った。

しばらくはゴーギャンの動向に集中してから、冷めたコーヒーを一口飲み、ふと息抜きに外の景色に目をやると、手かざし男の姿は消えていた。通勤の時間は過ぎ、人もまばらになってやや落ち着いた駅前を、どこかの茂みで捕まえてきたのか、くちばしに丸々と太ったネズミをくわえたカラスが何度も横切っていく。どこか落ち着いて食事できる場所はないかと、あたりの屋根を行ったり来たりしているらしい。

駅前を滑空しているカラスを眺めていると、目の奥が疲れているように感じて、もう文字を追う気も起きなかったから本を閉じて時計を確認すると、ちょうど二時間が経っていた。

荷物をまとめている間も、カラスは何が気に食わないのか、ビルからビルへと飛び回っているけれど、獲物のネズミはぴくりとも動かず、だらんと垂れ下がった細長い尻尾だけがふらふらと揺れているのが見える。カップを返却棚に戻しながら、今度また男を見かけることがあったらコンビニに用事があるふりをして、かざされたその手の下に入ってみて自分にどんな影響があるのか確かめてみようとおもった。

次の日からも毎日かかさずコーヒー屋に通ったけれど、結局それから男の姿を見ることはなかった。そうこうしているうちに駅前の改装工事が始まって、駅舎の位置が変わってしまい、マンションはコーヒー屋の二階からは見えなくなってしまった。

そ の 三

西武線の豊島園駅はただ遊園地の最寄駅だったというだけではなく、自分のような盲腸線好きの人や、必ず座れる池袋行き始発のために住んでいる人たちも利用していて、駅前にはそういった人に向けてのささやかな飲食店や八百屋、居酒屋、スナックなどが入居している建物がある。

遊園地にしか用のないレジャー客の視界には入らない、改札を出てすぐ右手の一角がそれで、遊園地がなくなってしまっても取り壊されることはなく、少なくない店が以前と変わらず営業を続けている。

ある日、改札を出ていつものように駅前のファミマでコーヒーを買おうとしたら機械が故障していて、手持ち無沙汰で家に帰っていると、普段は気にも留めていなかった地下のスナック街が目に入った。よく通る道だったけれど、酒を飲まない自分には最初から縁のないものとして、まったく意識していなかったらしい。

暇つぶしに階段をおりてみると中は薄暗くて、昼間ということもあって店はほとんど営業していない。ただ奥の方に一つだけ、明かりの漏れているところがあった。

近づいてみると、開いたドアの中に受付があった。ミニシアターらしいけれど、仕切りがあって受付の人は口元しか見えない。見渡しても特に掲示はなく、何を上映しているのかもわからないものの、昔ながらの映画館はそういうものだろうかと、言われるがままに千五百円を払って中に入ってみた。

受付の奥がすぐ階段になっていて、ずいぶんと下のほうまで続いているようだった。何度も折り返しながら従順に下降していくと、やがて階段の底に辿り着く。目の前にある重厚な木製のドアを開けると、おもったよりも広い空間に椅子が多く並んでいて、正面の壁いっぱいにスクリーンがあった。

上映はもう始まっていて、なにかの映画が掛かっている。自分の他に客が一人いて、前方に年寄りらしい禿げ上がった頭が黄色っぽいスクリーンの光に照らされていた。距離を置いて、後方右端の古臭いクッションの椅子に座ると、壁が少し震えた気がしたけれど、結構な地下までおりてきたから、地下鉄の大江戸線が通った振動なのかもしれない。

上映されているものは脈絡なく、台詞の途中であってもカットが入っていて、特定の映画を流しているのではないことにはすぐ気がついた。色々なシーンが脈絡なく繋ぎ合わされているようで、取り留めがない。

しばらく映像を眺めていると、映画には詳しくないのでタイトルはまったくわからないけれど、「殺人鬼なんかとは一緒にいられない」などと言って外に出ていくと案の定すぐに殺されてしまう、様々なホラー映画の最初に殺されてしまうような黒人のカットが続いていた。

その後には、熱帯雨林のヒト喰い人種だったり、先住民に対して台詞ではっきり「インディアン」と言っている場面が映って、次には暴力的なシーン、レイプ、マフィアの拷問、そしてドラッグの映像が入り乱れていた。これは現在のハリウッドではカットされてしまうようなシーンだけを繋いだものが上映されているのだろうかと考えた。

宗教に絡んだ様々な描写、小人、フリークス、そして馬殺しや犬殺しと映像は続いてから、スクリーンには白人の俳優が上官や先生役を演じている場面、大人数が映っているのに白人しかいないシーンがいくつも流れだした。

映画業界にはうとくてわからないけれど、今ではもうこういった表現もタブー扱いなのかと、矢継ぎ早に切り替わる映像の細部に目をらしていると、だんだんと視野が広角になっていくような錯覚に陥ってきた。昔からなにかに集中すると、自分の視点が頭の後方に移動してくような感覚があって、細かい部分を見ようとしても視界が広がっている分、詳細が追いにくくなってしまう。

映像はまた切り替わり、同人種で男女のカップルや夫婦の映っている場面が大量にものすごい速さで流れていくようになっていて、ますます目を見開いて明るいスクリーンに集中していると、黄色い真四角が徐々に丸みを帯び、次第に楕円へとその形を変えていくように感じられた。

そ の 四

駅の改札を出たらもう床は水浸しだった。酷い雨なのは知っていたけれど地下鉄に乗っていたから気づいてなくて、A2出口への階段には入り込んでくる雨水が、お洒落なマンションのエントランスにあるオブジェのように、絶え間なく流れている。

ようやく地上に出ると、外は真っ白く煙っていた。大粒の雨がばりばりと屋根や軒先に降り注いでいて、今にも崩れてきそうだった。

駅前の豊島園通りは左手がすぐ坂になっていて、そのまま石神井川の方へと下っているけれど、道路を流れる雨水はざあざあとそちらへ猛烈に流れこんでいってるらしい。

しばらく様子をうかがっていたらなんとなく雨脚が弱まったように感じたから、覚悟を決め、傘を差し雨中へ入った。

坂道を滑るように川へと向かう水の流れと一緒に通りを下っていくと、後ろからとめどなくやって来る雨水が追い越していくついでにかかとへ勢いよくぶつかってきて、下半身はあっという間にびしょ濡れになった。厚い雨雲の色が少しだけ薄くなったかとおもうとがらがら音がして、それほど遠くない距離で雷が鳴った。

石神井川に掛かる中之橋の前後には信号機があるけれど、もう下は水に浸かってしまっていて、地面に反射する赤や青がゆらゆらと波打っている。それでも足首の少し上くらいまでだったし、もうこれ以上、濡れて困ることもないだろうと足を踏み入れた。

橋の上に立ってみると、どおどおと激しく流れる水で地面が少し震えている。ぎりぎりで越水はしていないらしく、川に流れ込もうとする雨水の順番待ちが起こって、信号機のあたりが渋滞しているだけなのだろう。

大昔に石神井川を掘り下げる工事をしていたおかげで助かったに違いないけれど、それにしても石神井川のこんな上まで水がきているのはめずらしかった。水面は足元のすぐ下にあって、橋の裏あたりにあるはずの暗渠からの合流も全く見えない。

激しい流れを目で追っていると、どうもところどころに濁った水の大きな塊が紛れているように感じた。今日の雨は特段激しいようにおもえたから、大量の雨粒がいっぺんに降ってくるとそういうこともあるのだろうかと、ぶよぶよしたなめらかな物体が護岸壁にぶつかりながら流されていくのを眺めていると、暗い空が赤みかがった灰色に点滅して、今度はさっきよりも近くに雷が落ちた。

再び雨脚は強まりはじめたらしく、傘がばちばち鳴りだした。雨と汗で張り付いた服の不快な首元を直そうとした時、あたりが眩しくなったかとおもうと間を置かずに雷鳴が響き渡って、周囲のあらゆる音や景色をかき消した。

雷のせいで視界がハレーションを起こし、降り続く雨も水浸しの地面も、今にも溢れ出しそうだった水の流れも白くなってしまった。しばらく瞬きを繰り返していると視界は元に戻ったけれど、川の濁流だけはずっと白いままのようにおもえた。

中之橋のあたりは窪んだ地形になっている。雨が激しくなったことで、豊島園通りの南北から流れてくる水もまた勢いを増したようだった。

もう川があふれるのは時間の問題だろうと、坂道を上りはじめたところで、坂の上からやってくる水の流れが一瞬とまったかとおもうと、すぐに大きな水の塊がごろごろと車道を転がってきた。どうやら雷が落ちたあたりの雨水がダマになったらしい。

雨の塊は地面の水を撥ねながら転がってきて、信号を無視して通り過ぎ、少しだけ橋の欄干らんかんにつっかえてからとぷんと石神井川に落っこちて、そのまま下流の運動公園の方へと浮き沈みしながら去っていった。

そ の 五

おみやげの紙袋を手に満足げな様子で駅へと帰っていく魔法使いのコスプレをした人たちとすれ違い、石神井川に沿った細い道を歩いていくと、練馬城址公園の広場に出る。

公園がオープンしてからあまり日が経っていないし、夕方に一雨降って、風のある涼しい晩だったから、広場にはいつもより人が多かった。公園にはあちこちにLEDの街灯が立っていて、人工的な明かりにこうこうと照らされているせいで、芝生も公園の木々や人々もなんだか薄白く見えた。

空いていたベンチに座り、風に吹かれていると、目の前をジョギングや犬の散歩の人がひっきりなしに通り過ぎていく。中高生がブランコやトランポリンのような遊具で狂ったように騒いでいるし、芝生にはバレーをしているグループがいる。新しくできた公園の様子を見に来た近所の人たちもあちこちで立ち話をしていて、さまざまな場所から聞こえてくる楽しげな声を聞きながら、このあたりには大きな公園がなかったから、遊園地跡地の一部を公園として整備するのはよい計画だったなとおもった。

トイレ横の自動販売機でお茶を買ってから散歩の続きを始めると、自転車に乗った中学生の集団が、

「ねえ、さっきの子、知り合い?」

「知らない。よくここで会うけど」

と大声で話しながら横を通り過ぎていった。じゃりじゃりと油の切れたチェーンの音は遠ざかっていって、すぐに聞こえなくなった。

公園を後にして、いつものように住宅街を抜け、五十分ほど歩いていくと和光のスーパー銭湯に到着する。リニューアル工事のためにしばらく休業していたのがようやく営業を再開して、ひさびさに黒湯に入れるのを楽しみにしていたのに、露天の隅っこにあってそれ目的で通っていたといっても過言ではないほど大好きだった寝ころび湯のスペースが、新しくできたサウナのために撤去されていた。流れる湯はほんの少しだけで下のタイルが温かく、体の後ろ半分だけがぽかぽかする理想の寝ころび湯が永遠に失われた悲しみを抱えたまま、笹目通りにある深夜までやっているファミレスでぼんやりコーヒーを飲んでいたら、終電がなくなった。

銭湯やファミレス目的で光が丘のあたりまでやってきて終電より帰りが遅くなるのはよくあることで、サウナばかりを優遇しはじめた世の中のスーパー銭湯の態度にもやもやしながら、寝静まった街をぼやぼやと歩いて帰る。

練馬春日町の交差点から住宅街の中の暗い道を通り抜け、練馬城址公園の端に突き当ると、家並みがなくなって視界がひらけた。広々とした公園の奥には未だ工事中の区域が真っ黒い影を落としていて、ぎざぎざしたシルエットだけの森の向こうに、練馬駅前の高層ビルと紅白の通信鉄塔がのぞいている。

ファミレスからはしばらく歩いていたから、公園の入り口付近のベンチに腰掛けて一休みしていると、深夜二時を過ぎているのに遊具のあたりにいくつか人影があることに気がついた。夜中に公園を通りがかることはあっても人を見かける機会はあまりなかったから、めずらしいなとおもった。

そのグループは、銀色のトランポリンのような器具で飛び跳ねて遊んでいる。背丈の雰囲気では中学生くらいに見える。近隣住民の寝静まった時間帯だから気をつかっているのかもしれないけれど、はしゃいでいるように見えるのに不思議と声は聞こえてこない。

こんな時間に子供がいるのかとおもって、しばらく様子をうかがっていたら、その集団は遊具のエリアから離れ、どこかへ帰っていくようだった。どこかこそこそしたところがあるからなんとなく気になって、少し距離をおいて気づかれないようにゆっくり後を追ってみると、人影は公園の北側の道路を渡り、鳥居をくぐってぞろぞろと春日神社の境内へと入っていった。自分も後に続いて暗い境内へ足を踏み入れたけれど、どこにも人の気配はなかった。

風が境内の大きな榎木えのきや竹を揺らして、かさかさとした葉音だけが聞こえてくる。さっきのグループは敷地を抜けて、春日町の方面にでも帰っていったのだろうと考えた。

それきり家に帰って寝たけれど、次の日の朝に気になり、また春日神社まで出かけてみた。明るい境内を見てまわっていると、拝殿の右手にある、隣の寿福寺との境界になっているブロック塀だけが妙に新しいことに気がついた。絵馬殿のちょうど裏手には金属製の扉があるけれど、反対側から厳重に鎖で施錠されている。

寺の正門側に回り込み、墓地の中を抜けていくとその塀の裏手に出た。そこには三峯みつみね社と閻魔堂に挟まれて、十羅刹女じゅうらせつにょ社があった。調べてみるとこの祠はもともと春日神社にあったのが、神仏分離で別当寺だった寿福寺側の敷地に移設されたものらしい。

十羅刹女は子供愛護の信仰の神様だから、公園まで子供たちの様子を見守りに来ているのだろう、それで最新の遊具が気になって、昨夜は人気ひとけのない時間に試してみたりしていたのかもしれない。

風が吹いて木々の葉を揺らしていく合間には、公園で遊ぶ子供たちの声がかすかに聞こえてくる。まだ遊園地があった頃、こちら側は敷地の裏手で高い柵と木々に阻まれていた。今は整備されて広々と開かれているから、子供たちとの距離もずいぶん近くなったに違いない。

そ の 六

最近は家を建てる時だけではなく、引越し先を探す際にもハザードマップを参考にする人が増えてきて、そうなってくると埋立地ではなく、堅固な武蔵野台地の上に乗っかっている練馬の評価はますます高くなっていくらしかった。

その台地の端っこあたりに、ずっと空いたまま放置されていたどこかの社宅が、ようやく取り壊されて更地になった。近所だったから建設作業内容を説明する努力義務があったのだろう、自宅のポストに騒音のお断りと一緒に建設計画の書かれた厚い紙の束が投函されていて、目を通してみるとその敷地には三階建てで十二戸という高級な物件が建つことがわかった。

練馬駅の方では、古くなった戸建がまとまって取り壊されて、再分譲されているのをあちこちで見かけたけれど、今年の初めには豊島園通り沿いにも新しいマンションができたばかりだし、再開発の波はゆるやかに、こちらにもやってきているようだった。

練馬駅からの帰り道はいつも線路沿いに下り、谷のところを右に折れてからしばらく歩いてけやき公園を突っ切っていたのだけれど、公園の横にならんでいた戸建が立ち退いたのか次々に取り壊されていって、気がついたら最後の一軒を残して一帯が空き地になっていた。

またマンションでも建てるのだろうかと、通りがかる度に気にしていたら、ある頃から公園の近くで、エンブレムが下品な金色をした横浜ナンバーの黒いクラウンとよくすれ違うようになった。公園の横の道路は裏道だからそれほど広くないのに、荒い運転で飛ばしていくから危なっかしくてしょうがない。

次に、平日休日を問わず、その公園横の残された家の前にスーツを着た男が何人もたむろするようになった。スーツを着ているとはいっても人相はろくでもないから、おそらくは不動産関係だろうとおもった。

夜遅い時間に通りがかっても、その男たちは公園のベンチに腰かけてずっと家の様子を窺っている。乱暴な運転をしていた黒いクラウンは、家の隣の空き地に停められていることが多くなった。

次第に一軒家の周囲の空き地にはゴミが放置されるようになった。誰も住んでいない空き地だから他所からわざわざ持ってきているのだろう、中には近くを通るだけで生臭く感じるゴミ袋もあった。

それから、取り壊しに際して組まれていた足場から養生シートが外されて、代わりに電飾が付けられた。家の周囲に張り巡らされたその飾りは昼も夜も光っていて、点滅するタイミングでばつばつと回路か何かの切り替わる音がして、横の道を通りがかるだけでもとてもうるさい。

隣の敷地のことだから法律的には文句が言えないようにしているだろう、バブルの時代から伝統的に受け継がれてきた、由緒正しい正統派の地上げ仕草というものを初めて目にして少し感心しつつも、実際にやられている人はめんどくさいだろうなとおもった。

公園や家の周りをぶらついているツーブロックたちは残された家の住人に圧をかけているだけなので基本的に暇なのか、近くを通るとこちらをじろじろと見てきて気分が悪い。だから練馬駅からの帰り道は小学校の横を通り、寺の前の坂道を下るルートに変えてしまって、けやき公園のところはなるべく避けるようになった。

ある日、薬局の帰りに考え事をしながら歩いていると、癖でけやき公園の前にやってきてしまっていた。以前のように公園の中を突っ切ろうとして、木々の向こうが黒く、やけに空が暗く感じることに気がついた。

違和感の正体はすぐにわかった。この前は空き地だったはずの一軒家の周りに、屋根よりも高い岩山ができていた。その黒っぽい岩肌は家を避けるようにして、道路にはみ出すこともなく地面から垂直に生えていた。

その岩のところどころには空き地の周囲を囲んでいたはずの柵やロープが引っ掛かっていた。黒い岩はいたるところが直角に尖っているけれど、位置を変えて眺めているとその角度がより鋭角になったり、へこんだりするから、見ているだけで不安になってくる。

急に現れた岩は奇妙だけれど、練馬は歴史の長い土地だし、そういうことも時にはあるのだろうとその日はあまり気にも留めず、家に帰った。

何日か後に気になり、また同じ道を通ってみると、やっぱり家の周囲には黒い岩山があった。前の晩に雨が降ったせいか、岩肌の黒ずんだところから染み出してきた暗い色をした水が道路に流れてきて、排水溝の周りに水溜りをつくっている。その水は風もないのにゆらゆらと揺れているようにもおもえた。

ふと見上げると、黒いクラウンのフロント部分が岩から突き出ているのに気がついた。それはまるで岩肌に飲みこまれて同化したようだった。

異質な幾何学に基づいた抽象芸術じみた建築物のようなその岩を眺めていると、ある角度からだと球に見えるけれど、また別の方向からだと立方体になったり、捉え方によっては壁や柱におもえなくもない箇所もあった。それは異様な論理によって作られた建築物のようだった。

妙になめらかに輝く箇所がある黒い岩肌を眺めていると、前方から犬の散歩の人がやって来た。しかし、その人は名状し難い岩山のようなものについてはまったく気にしていない様子で、連れられた犬も同様に、電信柱とかブロック塀の匂いをかぐのに懸命で普段と変わりはなさそうだった。

明くる日に練馬駅近くのスーパーで買い物をした帰りにけやき公園の前を通りがかると、不思議なことに家の周囲には以前のように、空き地が広がっていた。昨日まであったはずの岩山はどこかに消え、草がぼうぼうと生えた更地がずっと前からそこにあったかのようにすましている。排水溝の付近にだけ、ほんのわずかに黒ずんだ染みが残っているようにもおもえたけれど、ただ単に汚れているだけかもしれない。

結局それっきりで、残された戸建では家の屋根を職人さんが塗り直しているのをみかけたから、リフォーム工事が始まったらしい。黒いクラウンや公園をうろつく不動産屋の姿を見かけることはなくなって、周囲の空き地の工事はいつまで経っても始まる様子がない。

そ の 七

背を屈め、手にしたライトで行先を照らしながら円形のコンクリート管の中を北へ向かって小走りで急ぐと、小さな合流を過ぎる度にその円筒は徐々に広くなっていき、ようやく背を伸ばしていられるようになった。

Y字に別れている箇所を右手に折れると、管渠かんきょの構造が変わり四角くなる。腰が疲れてきたこともあって、少し伸びをしてから再び道を進んでいくと、やがて練馬幹線に出た。

地中を東西に走っている練馬幹線は大きく、手を伸ばしてみても上には手が届かない。先ほどいた豊島幹線よりも傾斜がわずかに緩やかになった。

我々が移動に使っている配管にはかつて汚水が流れていたというけれど、今はもうこの下水管に水が流れることはない。清潔なわけではないし、日の光が当たらないから腐敗臭やカビ臭さがあるけれど、それでも地上に出て奴らに追われるよりはずいぶんましだろう。

練馬幹線の大きなコンクリート管の左手にあたる西の方角からは、いつものように咆哮が聞こえてくる。そちらからはどことなく獣臭が漂ってくるようにも感じる。かつて苦労の末にそれを高野台幹線から貫井幹線の間になんとか閉じ込めることに成功して、いまのところ解放される気配もなくうまくいっているけれど、この状況がいつまで続くのか保障はない。

練馬幹線よりも北にある環八幹線には南田中から春日町のあたりまで未設部があって、以前は西の方からやってくる人たちが迂回路として、この練馬幹線を経由していたけれど、今は封印のおかげでこちら側まで来れなくなった。西側の人たちが今どうしているのか、窺い知ることはできない。

断続的に続く低い唸り声を背にして東へ進むと、すぐに直角で左に曲がるカーブに突き当たる。いったん立ち止まってから、正面の壁にライトの光を当てて合図の印を描いた。すると、曲がり角の向こうに身を潜ませている見張り役の仲間が、ライトの光で同じように合図を返してくる。

ライトを地面に向けて、足元だけを照らしながらゆっくりとカーブを曲がった。こんな地下の暗い世界では、誰も顔を照らされることを良しとはしない。

「落合のやつらは?」

「まだりてないようだ、気配を感じる」

我々が属している新河岸しんがし処理区は、落合処理区と南北に走る中新井なかあらい上幹線じょうかんせんで繋がっている。南にいるやつらは何度もこちらの領域を犯そうとしてくるけれど、それは昔から続いている因縁のせいには違いないものの、その残忍で非情な手口はタチが悪かった。

見張り役の仲間と別れてからしばらく道なりに進むと、地面に大きく穴が開いた箇所がある。中新井上幹線へはその穴の側面にある梯子を使って降りればいい。

中新井上幹線へ出て北へ進んでいけば環八幹線に突きあたるから、そのまま進んでいけば新河岸水再生センターへとたどり着ける。

ライトを消灯してしまいこんで、梯子に足をかけた瞬間、ふいに何かの気配を感じた。いったんは降りるのをやめて、地面に伏せ、穴を覗き込んで聞き耳を立てていると、かすかに足音がした。

足音は二人分あって、北の方角からやってきている。北からということは我々の領域だから仲間でしかありえないはずなのに、なぜかこのまま隠れていた方が良いという直感があった。

息を潜めてそのまま待っていると、足音と一緒に二本のライトの光が近づいてきたかとおもう間もなく、急にライトが上を向いたから慌てて顔を引っ込めた。二つの光が何かを探るように、天井を飛びまわる。

我々の仲間の見回りだとしたらいきなりライトをこちらに向けたりはしないから、少なくとも味方ではなさそうだった。なんとか隠れられて助かったけれど、状況はあまり良いとは言えない。

その二人組はこちら側の練馬幹線に登ってくることはなく、中新井上幹線をそのまま南下していった。北からやってきているということはどういうことだろう? いま新河岸水再生センターへ向かっているのはかなり危ういのかもしれない。いったん来た道のりを戻って、見張り役の仲間に伝えるべきだろうか。

考えを巡らせていると、去っていった二人の後をつけるように、地面を這いずるような音が聞こえてきた。ライトでは照らさないようにして、穴を覗き込み下方を確認すると、暗闇の中をなにか大きくて長いものがのそのそと通り過ぎていくのがわかった。

そ の 八

目を覚ますと、いつの間にかやってきていたタキくんが気づいて「起きた?」と言った。徹夜が続き疲れていたようで、タキくんを待っているうちに寝てしまっていたらしい。「気にしないで寝てて、僕は考え事をしてるから」机の向かいに座ったタキくんはそうして灰皿に置いてあった吸いかけの煙草を吹かし出した。

テーブルの上には、タキくんが注文したらしきチャーハンがまったく手つかずで残っている。「このあたりで一番おいしい」というタキくんのお気に入りだったから、急に呼び出されていつものようにこの地下の台湾料理屋で待ち合わせたのだけど、チャーハンはすっかり冷めているから、どうも長いこと寝ていたようだった。

タキくんは手に持った煙草を持て余すようになにか考え事をしていて、どこか思い詰めた雰囲気があるようにも見える。

店の隅のテーブルには年寄りの常連が集まっていて、その中で一番若そうな婆さんが離婚したいという話をしているのが聞こえてくる。周りの人はそれにアドバイスしているけれどすぐに自分語りをするから、寝てしまう前に聞いていた内容からまったく進展がないようにおもえた。

「もちろんね」タキくんは独り言のようにこちらが聞いているかどうかを気にしていない様子で、「今日じゃなきゃいけない理由なんてないけれど、もう待っていられないんだ。あんな特上のやつはないよ。これは久々の大仕事になる、なにせ扉だけでなく枠ごとどうにかしないといけないんだから。今夜中には取り掛からないとね」と、自らに言い聞かせるように話した。

それを寝起きのぼんやりとした気持ちで聞いていると、またすぐにいつでも寝られそうだったのが、店の隅にやけに明るい間接照明があるのが目に入った。その逆行になった輪郭は刃物のように鋭く、いまにも目に突き刺さってしまいそうなほどに尖っていたから、眠気は消え、頭が幾分はっきりしてきた。

ドアオタクのタキくんに偶然見かけた豪邸の玄関扉のことを話したのは、少し前のことだった気がする。昔からドアに目がないのは知っていて、「変わった扉があったら教えてね、人に教えてもらうのは自分で見つけてくるのとはまた違う良さがあるんだから」と言われていたから軽い気持ちで情報を教えただけだったのに、そこから彼なりに調査した結果、衝動を抑えられなくなったらしい。

タキくんは天井をみつめたまま、おそらくは今夜の仕事とやらについて整理しているようだった。「念入りに調べておいたからたぶん大丈夫なはずなんだ。今日だったら住人は出かけているし、隣の人も昨日、旅行に出かけたばかりだから。ただね、万が一のことがあるかもしれない。もし僕に何かあったときには前からお願いしている通り、その時にはぜひ君に僕のコレクションの面倒を見てもらいたいんだけど、いや、無理にとは言わないよ。ただあのドアたちが朽ち果てていくままにしておくのは忍びない気がするんだ。適切に管理してほしいけれど、それは無理なお願いだとはおもっているよ」

二度ほど、タキくん自慢のコレクションを見せてもらったことがある。一度目はたしか知り合ってまもなくの大学生の頃で、大きなドアをどこに保管しているのだろうとおもっていたら山奥にまで車で連れて行かれて、祖父から引き継いだという工場跡地に案内された。中には様々なドアが何十枚もならべられていて、特にお気に入りのものに関しては、壁にわざわざ取り付けてあって開閉できるようにもなっていた。

タキくんは嬉々とした様子で、それぞれのドアのどんなところが素晴らしいのかを説明してくれたり、またその由来などについて詳細に教えてくれたりした。本当なのかどうかは定かではないし、どうやって手に入れたのかもわからないけれど、そのコレクションの中には軍艦島から持ってきたという代物もあった。

その頃はまだ常識的な範囲内の数だったのに、つい最近の二度目の訪問では驚くほど数が増えていて、もうじきに工場跡の建物には入り切らなくなりそうだった。多種多様な数え切れないほどのドアを見て、どこからこんなに古めかしい扉をたくさん集めてくるのか疑問におもったけれど、どうも非合法なやり方で持ってきたものは案外多いのかもしれない。

「あの家のドアはね」とタキくんはうっとりとした表情で喋り出す。「年代物の花梨から作られてるんだ。表面の杢が控えめに、いやらしくなり過ぎてないところがいいよ、それに彫り細工もすばらしい。怪しまれるといけないから、あまりそう何度も近づいて観察はできなかったけれど、それでも今まで見てきた中で一番いい。今夜うまくいったら、その良さを君にも説明してあげるからね」タキくんは煙草を消して、身を乗り出した。

「しかもだよ、ドアの細工の右下隅には特徴的な切り掛けが二本入ってた。間違いない、あれは篠原製作所のものなんだ。しかも先代の!」

興奮してきたタキくんの声が少し大きくなって、向こうのテーブルの話し声が一瞬途切れたけれど、すぐにまた元の離婚話が始まった。

「先代の作品はいくつも所有しているんだけど、ほら、この前、君に見せて説明したやつを覚えてる?」タキくんはいくつもの例をあげて、篠原製作所について事細かに解説を始めてくれたけれど、ふと疑問を感じ、その話を遮って「そういえばあの豪邸の扉は結構な大きさがあったはずだけど、一人で運べるの?」と尋ねてみると、タキくんはこともなげに答えた。「まあまあ、それはどうだってやりようはあるからね。ドアを枠ごと取り外すことなんて今回が初めてというわけでもないし、ただね、いや、そのつまりは誰かに協力してもらわないといけないんだけど」

そこへ横から女将さんがやってきて、テーブルに頼んでもいない料理の皿を置いた。皿にはくたくたになるまで煮込まれた葉野菜がのっていて、女将さんは何も喋らないまま、あごでこれを食べるように指示をしてから厨房の奥に戻っていった。タキくんは皿の青くて長い葉っぱを見て「アブラナっぽいね」と言って、また煙草に火をつけた。

厨房の奥からは、早く食べろとでも言いたげな女将さんの視線を感じる。この野菜料理は長年菜ちょうねんさいという台湾の旧正月に出される縁起のいい食べ物で、途中で口を離してしまわないよう少しずつ噛み切りながら、時間をかけて食べきらなくてはいけない風習があった。

今日は旧正月だったのだろうか、以前も同じように、縁起物のサービスなのか注文してもいないのにこの野菜を出されたことがあって、何も知らずに噛み切って食べていたら、女将さんにこっぴどく怒られたことがあった。

ぬるくなったお茶を一口飲んでから、皿の野菜に取り掛かる。端っこのほうから少しずつ口に入れて咀嚼していく様子を見て、女将さんは元のようになにか野菜の処理をする作業に戻ったけれど、こちらをちらちらとうかがっている気配があった。

葉野菜はほんのわずかに醤油で味付けされているけれど、とにかく噛み切りづらくて、すぐに顎が疲れてきた。もぐもぐと苦労して野菜を食べているのをよそに、タキくんは夢見るようにドアのことを話している。

「あの扉は外側があんなに素敵なんだから、きっと中にもしっかりとした細工がしてあるはずなんだ。外側は太陽の光で焼けるけれど、反対側は劣化もあまり進まないだろうから、室内の側がどうなってるのかもう一刻も早く確かめたくてしょうがないよ。いや、こんなに興奮することって今までなかったことだからね」

タキくんが熱っぽく語っているのを話半分に聞きながら長年菜を食べ進めていくと、葉っぱの苦さがすこしずつ気になってきた。妙に唾液が出るし、お茶を一口飲みたいけれど、女将さんに見られてしまうかもしれないから、それは難しい。

「たしかに、さっき君がいった通り、あのドアを一人で運ぶのは少し大変なんだよね」

タキくんは煙草を灰皿に置いた。ゆっくりと細い煙が天井に登っていく。

「ドアとその枠組みを外す作業はもちろん僕がやることだから、なにも気にしなくていいんだ。ただ、その君にはね、もしお願いできるのだとしたら、一緒にドアを支えてもらったりだとか、そうだな、車まで運んでもらう時とかにね、少し協力してくれるだけでいいんだけどね。まあ、それほど苦労するようなことはないし、たいしたことじゃないとは思うんだけど」

顎に鈍い疲れを感じつつ、すまなそうな様子でこちらの返事を待っているタキくんをみつめた。「どうかな?」タキくんは同意を求めてくるけれど、自分は長年菜から口を離すわけにもいかず、返事のしようがない。

二〇二三年一一月一一日